20220917
ザ・ミソジニーを新宿でみたり、実家で鉢をもらったり、新しいメガネをとりに行ったりしており、道中、村上春樹の『1973年のピンボール』を読了していた。カントを読む鼠がミステリアスな雰囲気を送っている11月。ようやく、残暑で夏っぽいのにこれを読み進めて終わり、展示で知り合った方のデュシャン論も家で読み終わっていた。この前、メールで少しずつ読み進めておりますと話して、感想を送っていなかったため、機会を見つけて送りたい。デュシャンの芸術系数という概念は計算、ゲームの中にも偶発性があり、そこに無意識とのつながりを見出すというもの。類推が類推を呼んでいる気もさせたけど、晩年になるにつれて負けのゲームを演じるチェスの名手でもあるデュシャンは勝ち負けよりも、負けにこだわる所が気になった。ゲームにおける負け意識みたいなものはゲームの意味をはっきりさせると共に、盤面の上だけの世界でその外と内の裂け目みたいな所がある。そこにデュシャンの好奇心がある気がした。チェスひさびさにやりたいなと思う。高校の頃にドバイの豪族の息子がおり、チェスの話をよくしていた。その人はイギリスに留学してからよくわからない。
20220915
ロナルド・D・レインは、ひとは「じぶんの行動が〈意味〉するところを他者に知らされることによって、つまり彼のそうした行動が他者に及ぼす〈効果〉によって、じぶんが何者であるかを教えられる」といったらしい。他者の他者としてのじぶんって、きついけどそゆもんだよなって思った。人は人の時間を使うし、使わされる気もするけど、この時間という体系ってなんだろう。鷲田清一はこれに対して「じぶんで、他者の世界のなかに妄想的に意味ある場所をつくり上げる」と、話している。梅棹忠夫の『行為と妄想』読み返そうかな。
そこで、どこまでも私というエゴイズム、メンヘラみたいなものになるのだけど、その錯覚に陥ったとき、他者が遠のく。
が、自他は相互補完的と鷲田は話を続ける。学校でいえば、生徒を規定しない教師はいないし、教師を規定しない生徒もいない。とすれば「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生によりも、遅刻をしたり、点数間違えをする先生に習うほうが幸福かもしれないという。それが、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるから、だという。批評もお節介で、野暮だけど、それが無菌室になったとき必要性あるのだろうか。批評はさておき、他者もそゆものなのだろうか。急にベンヤミンの暴力批判論を読みたくなってきた。