20211006

今日は朝まで工場で働いた。帰りに自販機でジュースを買って帰っている。

といってもいいのだろうか。

市松文様のグリーンデイを見かけなかった。少し、心配の必要もない心配をしている私がいた。これをお節介というのだろうか。と思ってしまうくらいの時間に今日は出勤してしまった。

それはともかく、今日は何故か先輩が少しイライラしていた様な気がする。とてもサバサバしている。けれどもこういった印象を自分で持っているという事は、私がネチネチしているという事だろうか。と思ってしまうくらいの勤務態度をしてしまった。

それはともかく、帰宅の電車内で読んだ諸隈元の『人生ミスっても自殺しないで、旅』が佳境を迎えている。いま、ウィーンにいる。美術館でパウル・クレーのblaumantelをみて、ヴィトゲンシュタインの言葉を思い出していた。

「芸術作品は、永遠の相の下に見られた対象である。」

この言葉はどうやらヴィトゲンシュタインが『論考』の下書きで述べた言葉であり、私はここで用いられた「永遠」について最近知り合いとやり取りしたのを思い出した。

知り合いはある展示をみて永遠を感じたらしく、私はどんなときに永遠を感じますかと尋ねられ、不意に和室のある旅館に旅行で訪れて、窓の外を開けながら森林浴を浴び、椅子に座って黄昏ている時間と話した。あと、サウナと水風呂の後の椅子で黄昏る時間といった気がした。

ヴィトゲンシュタインが用いた永遠という言葉は無時間性を意味しており、忙しなく働いては意味のない価値に拘束されているという感覚にさせられる絶対的価値として芸術があるという。

私はこの絶対的価値について、芸術ではないシーンに置き換えたときその様なことを考えていたという事を芸術から自身の身の周りに起きた旅行やサウナに置き換えて考えていた。けれども、同じシーンに出くわしたとしても絶対的価値を感じるのかどうかといった所は人それぞれなのかもしれないとも考えさせられる。

ヴィトゲンシュタイン

「時間の中ではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である」

「現在の中で生きる人にとって、死は存在しない」

「たとえ死を前にしても、幸福な人は恐れを抱いてはならない」

と書いている。この文を諸隈元の著作から孫引きしてしまった。

こう考えあぐねている間に午前6時を回ろうとしている。午後9時に就寝した結果、なぜが4時に起きていま、文章を書いている。「それはともかく、」と切り返したい所だが切り返す気力もなく、再び就寝に入る。