20211016
まだ暗い朝に起きて、自転車に乗って集合場所まで向かった。
駐輪場に自転車を入れ、途中から雨が降ってきた。
レンタカーを知り合いが借り、何人かと目的地まで向かう。
高速道路の景色はビルの群れから山の群れに変化していき、次第に畑しかみえなくなってゆく。
道中、サービスエリアでコーヒーを買ってきてもらう。
水分なくなったら大変だから。とドライバーの人に言われ、助けられたと思う。
それから1時間してから駐車場をみつけ、駐車後、周辺にあるデパートの地下で惣菜を買い、美術館の外にある広場で別れて昼食を取る。
目的地は水戸芸術館で行われている映像作家、ピピロッティ・リストの展覧会である。
水戸での展示は主に、過去の映像作品を集めたコーナーと空間全体を使ったインスタレーションに別れていた。
私は過去の映像作品を集めたコーナーから拝見した。
このコーナーでは、空間にプロジェクターで投影したホワイトキューブとオルガンが置かれた吹き抜けの2階の渡り廊下に配置されたブラウン管のどちらかをみるといった構成となっている。どちらも同じ映像が流れているため、映像の性質も考慮した上でブラウン管でみた。
リストはスイス出身の作家でバンドもやっていたためか、どれもが当時のオルタナティブバンドのPVにもみえる。しかし、使われた映像の多くは生理や出産、男性のペニスを振るなどの長時間見続けるには神経を使う内容となっている。そのため、一部、キャプションにPG-12がつけられていた。
特に「ピッケルポルノ/ニキビみたいなポルノ」(1992)は、ポルノの急増を受けて反応した作品となっており、男女の身体をカメラが上下にさまよう。そして、「わたしはそんなに欲しがりの女の子じゃない」(1986)では、ひとりの女性が「I'm not The girl who misses much」とつぶやきながら踊っている景色がブラウン管のノイズが波紋の様に押し寄せ、押し寄せた部分から一時停止してゆく。このふたつの作品からも、リストの作品群が揺れる視点の変動とPOVによる撮影という点が伝わる。つまり、初期作品が映像の特質によって鑑賞者の没入と客観視を併せ持つ存在なのではないのかと考える。
これまでは初期の映像作品が持っている特質であるが、今回展示されたインスタレーションでは、この没入と客観視が入れ子状に配置されている。それが主に映像作品と配置された家具やドールハウスなど、私たちがいる場所から別の人物がいる/いたであろう場所へと誘う装置などからも暗示させる。そのため、鑑賞する側はリストの空間に入っていきながらもどこの場所を信じればいいのか分からないまま彷徨う。
そのためか、展覧会の最後に掲げられたネオンサイン「トラストミー/私を信じて」(2016)をみて、少し安堵に浸った。
この文章を書いていく中で、昨日の事をそういうことなのかと整理がつけられていく気がしてならない。
同行した知り合いがそれぞれ展覧会を見終え、駐車場に向かい、そこから車で帰る道中でどうだったのか展覧会について話たりした。
途中、道の駅で知り合いが買ってくれた「さくら棒」が射精後の巨大な男根にみえた。