20211020

日記を記しているためか、ノンフィクションとフィクションの境目に関心が向いてきた。以前は映像を浴びるように見ていたためか、ノンフィクションに興味があった。それよりも本を読んでいるためか最近になり、フィクションに興味を持ってきた。
ふと、以前、国立新美術館で行われた「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」という展覧会を思い出した。この展示では、言語芸術と視覚芸術との接点を編み直すという試みのもと、写真家、北島敬三とアーティストである小林エリカ、ミヤギフトシ、田村友一郎、豊嶋康子、山城知佳子によってつくられた企画である。ここにおいて、私は文学との接点についての導線がもう少し欲しいと思った。
それは、どうしてこの作家のこの作品なのかというつながりが読めなかったというのもあるのかもしれない。確かに、山城の映像作品はナラティブについて考えることもでき、北島による家を撮影した作品からもそこに棲まう人々について想起させるしかけをしていた。そういった意味ではナラティブという視点から、どう物語を紡ぎ出せるのかといった点でも注目できたのかもしれない。けれど、どういったつながりでこうなったのか読めなかった。
それと比べて、「村田沙耶香の世界観_"正常"の構造と暴力性」は、小説家である村田沙耶香の頭の中を覗く試みとしてもアーティスト、金氏徹平とデイビット・シュリグリーの作品は村田作品を広げる意味を持っていた。そして、村田自身による創作ノートも視角的な発想から言語表現に向き合うという視野を感じることもできる。こういった視覚と言語のつながりという点においても、あの展示に何故、言葉が足りないと感じてしまったのか、ついつい考えてしまった。
もう少し整理してこの事について考えたいと思ってマスクを外して歩いていたら、派遣の人がたまたま歩いてきて、マスクをつけて歩いてくださいと注意された。