20211126


日記を書き始めてからそろそろ2か月が経つ。

書く中でいつも考えてしまうのは、どこまで他者の声を拾い上げていいのかという課題がある。

昨日、会社の人について触れた。この前は家族について触れた。前に付き合っていた人。友人。などなど。それぞれがそれぞれなりの振る舞いとして文章の中に登場させている。

そのため、これについて許諾する必要があったりするのかというつまづきもあるが、フィクションも交じっており、抽象的な身振りをしたいと思ったりしている。その人がその人であるという確証はない。


それにしても書いていて、話し言葉と書き言葉が入り乱れている文体ということについて考えたりしていた。
高校の頃に読んだ齊藤環のラカン入門書は話し言葉だった記憶があり、先輩に勧めたら、くどい文体で読みにくいと言われてしまった。
多分、どこかでそうなっているのかもしれない。
村上春樹の小説をくどい文体ということではないが、他人の日記を読んでしまった感覚にさせる印象をあたえる。中学のはじめに読んだとき、距離を感じて数ページでやめて、大学生になって読んだら読めた。

今週webに掲載される美術館のレポートは、日記を書いていたからかけた気がする。

この前、ことばの学校にて、研究者、千葉雅也が大学機関で学ぶ論文などの書き方、アカデミックライティングを「去勢された文体」と呼んでいた。
去勢されていないありのままを書くために小説を書いているという。

それを聞いて、確かに、そうした手つきを大学、大学院で学んでいたのかもしれない。
その上で、言葉の色合いみたいなものが失われ、これはこれとしてこれだからこう。みたいな物言いが生まれているのではないのかと考えていたりした。
大学の教授も多分、僕のことを小説をあまり読まない人だなと思っていたと思う。それに、そうした複雑な引用の織物を読み解いて、別に構築していく作業にもセンスがないと元教授に言われていた。それなら、それ、いま、やれるとこまでやろう。そう思ったりした。それと、前付き合った人への誹謗中傷予防。

とはいいつつも、そうした語りの仕方みたいなところにこだわって書いているわけでもなく千差万別だ。
ランキングに上がる文章は、お酒に酔って意識がとびながら意識と無意識がごっちゃになっている。
昨日、暗い一節をツイートするみたいな一節で添えたら読んでいる人が増えた。
こういったところ気にしたりしたくないけれど気にしてしまうのが性だ。
悪趣味な内容を吐露して、盛り上がることに異論も賛成もないけれど、それだけが見えてしまうのもツイッターハッシュタグ、キャンセルカルチャーに近い印象を感じたりしている。

テラスハウスが終わる前に登場した中国人留学生が日記をインスタのストーリーに挙げてフォロワー数を稼いだといっていた。数年前の自分は日記を挙げる承認欲求剥き出しの感覚が分からなかったけれど、いま、それをやっている。
この承認欲求という言葉、感覚は原田 曜平『 Z世代 若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?』によれば、SNSの特徴ともいう話がある。人にSNSを通して何かを表現するという意識がそうしており、誰もがアーティストともいえるTikTokは露骨にそれを見せれている。日記をみせる。他人の生活をのぞき見する文化。手記とはどう異なるのか。見せるという意識は働いてるのか考えてしまった。少なくともこの日記は見てもらうという意識が働いていたりする。

そんなことをもやもや考えながら富士そばに向かい発券機で何食べるか迷っている所、後ろからサラリーマンが「遅かったら、僕、選んでいいですか。」と聞いてきた。
驚いてその勢いで押した。
親子丼セットだった。
「勢い。大切ですよね。」とその人に行ってさっと券を持って行った隙にそのサラリーマンが一言いっていた。
「タイミング。」