20211129

 昨日、お湯であっためて飲んだワンカップ酒と冷えたビール一杯がまわったせいか、少し頭痛がする。起きるのも遅い。寒いからなのか。洗濯物の乾きも早かった。


 たまたま実家暮らしをしているときに聞いた話。ドトール。ふたりのテレビ制作会社の人が話している。

 「お前の好きな裸踊りの番組。撮れそうな地方みつけた。」

 そういっては、その地方の観光局みたいな人としてなのか。

 その地域の魅力を延々と話し続け、「お前、最近番組つくってみましたとかフェイスブックでめちゃくちゃ言われているな」と話していた。

 その相方が「分かった。ところできくが、いまの人とどこで知り合ったんだ。」そう聞いている。

 「婚活パーティー。」

 そういっては、相方が「まあ。マッチングアプリみたいなものか。」といって黙って地方の観光局みたいな素振りをしていた人から婚活パーティーの話を聞いていた。


 こう。黙って聞いているありがたさと話さなければいけない沈黙を乗り切らなくてはならないという向こう側の切羽詰まった物言いが印象に残っている。


 今日あった事よりも頭痛のせいか、この前のことが思い浮かんでいる。

 会社でコーヒーを何杯も飲んでは水を自主的に補充している。


 そういえば、あまりにもお金の収支をつけるのが苦手で母親に相談された。そうしたら、「お酒。あまり飲みすぎないでね。」と言われた。「あなたより飲みすぎてないから」と言ってしまった。

 うん。多分、母親よりは飲んでいないと思う。いつも父親が「今日も飲みすぎなんじゃないか。」とストップ入るまでお酒が家庭の中でループしている。


 それにしても両親、祖父母ともにお酒を飲む体質ではある。けれども最近思うのだが、私はあまり強くないのに周りがそうだから、そういう付き合いに同情して飲んでしまったりしているのではないのかと思っている。非常に面倒な話だと考えたりした。特にこれといって深刻な話ではなく。単純に心配性なんだと思う。


 朝に話を戻したい。テレビをつければ中村獅童が出て、子どもがいた。コメンテーターは「三歳なのにすごいですね。テレビ慣れしてますね。」と話していた。

 中村獅童のニュースの前に鬼束ちひろが逮捕されたニュースを私はみている。

 そのためかこの三歳児のどこまでがテレビ慣れといえるのかはっきりしなくなってきた。

 私は少なくとも信用したいと思う事に対して無頓着な感覚だったり、それに迎合したりしたくなかったりする感覚に「それは。それとして。」という手の添え方ができるのだろうか。三歳児の方が大人。といえるのだろうか。少し動揺している。


 ここで話をあえて空振りしてみよう。

 そもそも。人類が定住し始めたところから事の発端は起きているのではないのか。不快なものから逃れて生き続けている遊動民が地殻変動と共に、定住せざるおえなくなる。そして、二足歩行も同じく、せざるおえない環境下でなってきた。地殻変動による定住が社会システムを作り上げたという西田正規の定住革命がそう示しているように。そこからそのシステムだけが足早になっているのではないのか。


 より適応能力が幅を利かせ、そうした能力が空気として浸透してしまったとき、救急車の私たちには関係ないのでという無関心性が発露する。

 ただ、それでは諸機関の動きとしてマネタライズできない。理知的に物事が働けば働くほど安定はするし、安定した方が人間の動きも無意識と意識の峻別がつくのではないのか。実際、絵を描くことや文章を書く事といった所に能力を費やす人は不安定である。これは認知科学で実証しているらしい。改めて、ダニエル・カーネマンのファスト & フローを読みたい。


 それはともかく、救急隊員の動きも"そうせざるおえない理論"ではなかった気がしなくもない。どうやら鬼束ちひろの友人がパチンコ屋の騒音で倒れ、オジサンがイラつきそのイラついたおじさんに鬼束ちひろが警察の代わりに救急隊員に助けを求めたところ「対応できない」と発言した。そのため、救急車を蹴ったという話である。そうせざるおえないのだったのか。果たして私がその場に出くわしたとき組織としての判断と個人としての判断。どちらに忠誠を誓うのだろうか。

 多分、救急隊員自身が警察を呼ぶのであるが、まず、助けを求める人を安心させることが必要だったりしたのかもしれない。その上で警察を呼ぶがまたそこで救急車を器物損害していたらどうなるのだろう。更に言えば、リバタリアンとしての行動は、リベラルとしての行動はと考えたりしていた。