20211130

 今週、掲載された常設展レポートについて色々考えてみた。この「あなた」という呼びかけの様な二人称を用いて文章を書いてみて、SNSにおけるPRのされ方などとつながるのではないのかと思ったからだ。

 以前、ある書籍を作るために何冊かPR(パブリック・リレーションズ)の本を読んだ。その中でPRとプロパガンダの違いなどについても知り得た。昨今のツイッターなどの現象からも分かるように個々のプライベートな生活と公共空間が癒着している。それは、PRがもつ「I LOVE」といった全体意識。我々は○○である。という意識づけからくる。「#」からも顕著だろう。事実、このレポートの文体を書く中で、これはSNSを増幅させた一種の柔らかい文体でありつつも癒着だよなと思ったりした。

 あと、れぽーとのレポートが出てもいいのではないのかという意見もみられた。書く中で、書いた後に見せあえる人がいないという困った事が私にはあるのだが、出す前に様々な人に相談した方がいいなと考えたりしてみた。ただ、それが内々の相談ではなく対外的なレポートになったときにどうなのだろうと思ったりもした。それは、書き手が意識しなかった所で文体が意識的に働いてしまい、書き手の意図しなかったくみ取り方で齟齬が生まれてしまうからだ。その齟齬も書き手の中では楽しめる人もいるが人によって異なる。
 一方、誤配なのではないのかとも考えたりする。書かれたものが意識しなかった所で別のくみ取られ方をするというものも文章が持つ特異性だったりするのではないのか。それが、炎上を引き起こしたり、バッシングとなっていれば話は異なる。けれども言葉が持っているある意味での峻別は、人によってはストレスにもなる。このストレスが人格否定になっているのであれば、それは書き手の意識がどこまで自分の声として認めなければいけないのかとなってしまうが、声と文体の構造は別の意味を内包しているため、そこは割り切りが必要だったりすると私は考えている。
 割り切りというよりも批評された文章について様々な人と直に話した方がいいと思う。それは、北村紗衣の『批評の教室』にも書かれている。最後の章に演劇について雑談をするという部分がある。学部の頃にこういう授業があったらいいなと思った。批評の授業はあったものの別々の展覧会をみたものについて批評文を提出し、講評を受けるというカリキュラム構成になっていたため、共注視できない。共通の俎上がない中で別々の論が働いているため、重なりもなければ何も起こらなかった。授業時間との兼ね合いもあったと思うが、そういった同じものをみて話し合うという時間は必要だったりする。そのため、意識を注視してことばを構成していく文章による批評とそれを読んで話し合う機会が必要だと考える。
 話し合う機会を設ける事で、論理的に話すという事だけではなく、表情や仕草から言葉の意味が変化してくるため、何をもってこの言葉をこの重ね方で使っているのかという所まで考えられるからだ。一方向のコミュニケーションツールよりも双方向のコミュニケーションツールを使う事が今後は求められてくると考えられる。

 PRの話に戻す。PRはプロパガンダの要素と宣伝が混ざっている。この混ざっているところに対して峻別していき情報を捉えるという所も必要だったりする。けれども、それは批評なのかという点においては分からない部分もあったりする。そのためもう少し勉強が必要だなと自分で反省している。
 このPRとプロパガンダの違いから思い返した。最近、批評家、グリーンバーグについて文章をちまちま書いており、もうすぐ出るのだが、アヴァンギャルドキッチュも元々戦時中のプロパガンダを峻別つけるための意識が働いていたのではないのかと批評家、沢山遼が書いている。『絵画の力学』を途中までしか読んでいないため、読もうと思った。
 このままライトなnoteに掲載されるようなブロガーみたいな文章を続けていくのも少し苦行な気もするため、どこかでもう少し、しっかり書きたいと思っている。いや。書けよという話だ。