20211216

 車中。五所純子の『薬を食う女たち』を読んでいた。精神科の病院にかかりつけになる描写は、最初に付き合った人と失恋した後に少し通った川崎の無料リハビリセンターの記憶を掘り起こしたりしていた。積み木で図の様に組み立てられるのかとか。試験官が伝えた数字を暗記してどれだけ唱えることができるのかとか。そういったIQテストをやった。どうやら数字を暗記して唱える能力だけが滅茶苦茶突出しているらしく。それ以外はバランスが悪いようだった。特に試験前に学業、結婚、出産といったライフワークバランスの話をされたとき、水平、垂直の行動規範みたいなものがこの国の空気の中に内包されていると感じた。そういう抑圧されている当事者?である私が声を出してそれを唱えることもさもあらぬ話な気がするけれど。

 それはともかく、五所さんのこの本はそういった水平、垂直の空気?からなんらかのきっかけで外側に出てしまった人。といった気がする。読んでいる私自身も外側に放り投げられた感覚を掘り起こしては、そのときにそれでも外側のさらに向こう側の方へ突進していけるバイタリティがなかったのかなとか思ったりもしていた。
 原一男監督の映画「ゆきゆきて神軍」も最近みた。戦後に戦中でインパール作戦などの戦禍を逃れた人々が、それでもあなたは裏切っていきているんだよね。と様々な人に問い詰めるドキュメンタリーの主役。戦中。通信士として働きながらも「日本は負ける」と唱えて投獄された祖父の表情が重なった。問い詰められる人々は仲間を食べなければ生き残れなかったとか。そういった話をしている。倫理的にはどこか間違った行動をしていたにも関わらず、さもあらん表情で滔々と話している。

 学部の頃。バーで「わたしは普通の人です。」と話していたサラリーマンと会話したときに。バーテンダーが「普通ってなんですか?」と聞いていたとき。緊迫した空気が流れながらも。その人は「わたしは普通です。」と話していた。

 五所さんの本の中で、その精神科医にかかりつけになる人の家族の話から印象に残っているのは、家族写真。夫婦の写真がやたらと明るいという話。知り合いでもインスタグラムで毎週、なにかいいことがあるときれいな写真が投稿され、彼氏と一緒にどこかいったという話が書かれている。五所さんの本の中ではその人の母親が父親のことを「バカ」とアドレスに登録していたりと明るい写真の裏で全く異なる表情がある描き方をしている。
 以前、ウェブサイトで養老孟司が「自殺は家族の問題である。」と話していた記事をみかけたことがある。確か、映画「鈴木家の嘘」についてのインタビューだった。この映画は自殺してしまった息子を見かけてしまった母親がショックで記憶喪失になり。周りの家族が自殺した息子を実はどこかに行ってしまった人と嘘をつき、その嘘を延命し続けるという話。この嘘にユーモアが詰め込まれており、深刻な家庭内の問題を軽やかに演出している。
 磯部涼の『令和元年のテロリズム』でも8050問題について川崎の事件から書かれている。引きこもりの問題が若者問題から50代の人対両親が80歳になっているという話。引きこもれてしまう家はどういった家なのだろうか。引きこもれた先がみえない。
 実際、生と死が近代以降、見えなくされているというのは墓の誕生から顕著だが、日本家屋から量産型の建築。ファサードの奥にはなにもみえないという匿名性。これらから死を想像できない程のガラスの反射にはなにがあるのだろうと思ったりする。電車が最寄り駅についた。東横線のブレーキ音は律儀な鉄の音がする。