20220106

 株か何か副業を持った方がいいのではないのかと。銀行からたらふくのお金を引き下ろして思ったりしていた。何もできないけれども。何かしてしまう。こういった足を延ばしてしまう感覚が麻痺している部分なのかもしれないのかと思ったりしている。

 美術大学に入学した事もそうかもしれない。通常であれば何かしたいけれど何もできないし、動きたくないと思って経営学部や商学部に入り、商社か広告に就職してバリバリ稼ぐ。それか理系に入学してそのまま研究職という道もあったのかもしれない。けれども美術大学に進学した。美術についての文章を書くのが好きだったというのがある。
 小学生の頃。水彩画サークルにいて。僕以外全員女性だった。その前は漫画サークルにいて、担当教員が面倒くさそうに担当している雰囲気を感じ取り、迷惑かけたらだめだと思って途中から編入した。そこから美術?になったと思う。多分、幼い頃から母親がピアニストを目指しておりその夢を子供に託すという事をして。それであまりやりたくないけれどもピアノを習ったりしていた。何で俺だけ女性がやる事やってるのという偏見もあった。まわりのみんなは野球部に入り、日曜になったら多摩川で野球したりしているのを遠目でみていたりした。
 それもあってか、成長していくうちに一種のジェンダーバイアスに疑問を抱いたりしていた気がする。中学から高校に進学するとき。中高一貫校だったため、何かしようと思った。森村泰昌の展示をみにいって。シンディ・シャーマンの写真と比較した展覧会評を社会の先生に提出した記憶がある。
 直接的には書いていないけれども。男性が男性として美術について向き合ったときどうしても何故か「女性の」という偏見から考えてみるということもあった。他方でスポーツはどうなのだろう。
 こういう書き方したらミソジニーとか思われるのかな。
 偏見もある。それを言葉にしたときに形になってどっと出てくる気がしている。当時、森村作品に触れたときに何か生々しいものを見てしまった感覚があり、それが中学から高校に上がるとき。これまであった偏見がどっと溢れてきた気がした。
 その「男性」という固定概念みたいな肩パットを外してみたときに。ちっぽけな気がした。この気がしている感覚について。正月に例えていうなら、正月飾りの固まった持ちを叩いてみたら中から生餅がにゅるっと出てきた感覚に近い。
 そのとき書いた文章を読み返したら。まとまりのないものだった。けれども書いてその対象と向き合った感覚を言語化する中で「この考え方は別なのではないのか」と思ったりするときがある。
 どうしても人に読ませる文章や所謂、論文といった形式においては、論述といった書き方で如何に客観性のある論をくみ上げることができるのか問われている。しかし、これってこうなの。だろうか?といったモヤモヤした感覚を書いてく中でモヤモヤしているのも悪くない。学部の頃、教わっていた松浦先生や岡崎乾二郎は結論のないモヤモヤが残っていてそれはそれで好きだった。一緒にされたくないのだろうけれども。