20220109

 草野なつかの「王国」という映画をもう一度みた。知り合いに私が抱えた発達障害の傾向について話したところ勧められたからだ。この前、みたときは何度も演者が演じることで変わる声や表情。突然入るシーンのカット割といったところばかり目がいってしまい、声の内容についてまで聞き取ることができなかった。この映画は主に会話劇となっているのだが、脚本をそれぞれ読むという演技をみる映画となっている。そのため、どう話が転がるのかあまり読み取れなかったというところも一回目みたときの分からなさとしてあると思う。

 最後のシーンの3人の会話劇が頷けた。ふたりが会話しているところにひとりが「お前らの会話。伝わっているようでお前らしか伝わっていない会話になっているから。」といっており、それについて「でた。暗号回線。君らは言葉なしで会話できてるって感じ。」と割って入った人が話している。それについてふたりで会話している人のひとりが「ルールが変わるんだって。」といっている。こういった切り返しみたいなところだったり、変わっていってしまう。会話が転がっていった先がみえないという部分に共感した。

 発達障害と言われてしまう私の部分は、主にこれまで文脈に添えなかったり、それが飛躍してしまったりする場面がうまく適応できないために発生する。そのため、気質としかいえなく、適応できてる人もいる。この。「ルールが変わる」という会話がどこまで適応されているのか。或いは、どう変化してしまうのかについてこの映画の最後から考えさせられた。

 実家で両親が脈絡のない会話をしており、それについて戸惑ってしまうも、そうした私がこの夫婦の会話の外から聞いており、その部外者性を発動してしまう瞬間についてストレスを抱えながら考えていた。