20220124

 結構、付き合っている人に前にお付き合いしていた人の話をしてしまったり、それで関係破綻してしまったことがあり、結局、その切替の遅さだったり、遅延は人にとってノイズを発生させるのではないのかと解釈している。その遅延の不快なところに関心を持たない様にしている。保留。これは生きる術として、考えていかなければいけない。けれども遅延以外の事に気を取られてしまい、自らの身体を蔑ろにしている人もいるのではないのか。それが精神と身体が分離してしまったり言葉を取り外して別の所に飛躍したり、自己都合で解釈してしまったり、自己顕示欲として披露していたりしたのだろう。だからこそ、SNSに慣れない。やらなくていいけれどもみてしまう。そんなことを考えたりしていた。

 たまたま、岸田大さんと電話をした。岸田くんは同い年で小説を書きたいらしい。そこで岸田くんから「美術批評。需要あるんですか?」と質問された。僕は「需要はない。」と応えた。「だったら何でするんですか?」と聞かれた。「理念とその限界に関心があるからです。それが美術と社会のコンフリクトになり、そのコンフリクトが何故発生してしまうのか関心があり、そこにこれまで思想が解決しえなかった問題系が潜んでいる様に思うのです。」と応えた。
 たまたま、フェイスブックで友達が付き合っている人と旅行に行っているストーリーを見かけた。そこは別の友達が付き合っている人と訪れていた所だった。ラインで「そこいった事あるよね?」と別の友達に聞いた。「ここやねん。」と帰ってきた。
 この前も転職サイトを運営している人と会話をした。「どういう人に仕事を振りたいのか。」という話をした。
 自分の身の振り方を考えて生きていかないと破綻してしまうという危機感が人にはあって。それで関係を断ったり。断たなければいけないと思っても断てなかったり。それは間違いだったと思って自分の都合がいい関係に振って、逆上させてしまったり。振り方は自己防衛だけれど冷たいなと思ったりしている。
 昨日みたドキュメンタリー。「家庭の温もりがない。」という話はこの冷たさがいつの間にか「どうでもよさ。」とつながってしまったのではないのか。その起因した場と親の精神状態と労働条件。それらがくらっと重なってしまい、発生している気がした。
 周りに合わせすぎてその同調圧力が子にもかけている。それが無意識に働いている所にドキュメンタリーが描きたかった問題系が潜んでいた。
 こうした、所謂、物語消費(物語という言葉を使いたくない。好きではない。)をはじめてしまったきっかけは初めにお付き合いした人がドラマをとにかく消費して、それで身のこなし方を揃えるではないけれども、感覚として刷り込ませたりしていた。そこから憶測ばかりする人間になったのではないのかと思ったりするときがある。ドラマをみて、そこから次回こういう展開になるという推測ばかりしていた。後天的に捉えている。これについて。
 ただ、ツイートが会田誠に似ているだとか。多くの男性より繊細すぎるという物言いからある種の発達性。ないし男性蔑視の発言が最近になってから思い返さなければいいのだろうけど思い返してしまい、気を落とすときがあったりする。そうだよね。何でそういう気質なんだろうという自己反省と共に、影を潜めていたものがどっと出る事があり、「けれどどうなのだろう。それでいいと思う。」と最近では思っている。それが僕だからそれを認めよう。そうした3年間だったきがする。
 そんな風に思われてしまう人。言われてしまう人。ってなんだろうな。そう思われない様に生きているのかな。それを僕は年を取るとともに見えない肩パットが積み重なっていく。と表現したい。