20220127

 昨晩、ことばの学校1回目を終えた。授業の中、30分で課題をひとつ。なにを書きたいのかというお題で書くことがあった。そこで、私が書いた内容がたまたまランダムで選んだ中のひとつで、佐々木敦が読んで講評した。以下内容。


 結構、私は周りにとっては撮影しなくてもいいものをカメラで撮ってしまう癖があ る。それはなぜかポールに引っかかっているゴミを集めるための網だったり、夏 場、マンションの柵として機能するはずだった整えられた植物からはみ出すように 出ているだらっと垂れた別の植物だったりする。その撮影した機会について何かし らの言葉を当てはめてみたいと思ったりするときがある。その「動き」について書 いてみたいと思ったりしている。そのためには撮影した写真が必要でその写真と言 葉との関係を示す様な説明が必要である。その説明が説明になっているのかという ところまで見届けられるような「みはらしのいい所」ができたらいいなと思ったり している。そこから作品についての印象批評みたいなものも書いてみたいと思って いる。眺めているものは社会と個人的な物事との接点を保つ干潟かもしれない。そ の干潟をそこからどの視点で眺められるのかについて考えてみたい。


 そこで「干潟」、「みはらしのいい所」がセンスあるね。という話だった。それから、冒頭の一節。「○○だったり」というものいいが通常であると添削にひっかかるけれどリズムになっているというはなしだった。
 それから、岸田大くんと飲みに行った。岸田くんも会社の中で窓際族らしい。同じだなと思った。裁判もしたという。けれどもそこまでしたくない。「転職したら?」と話はしたけれども。どうなるのだろう。
 来年になったら契約社員になってしまうのかと思うと少し心配だ。何が適性なのか。なにに生かされているのかさっぱりわからない。けれどもただ、そこにいるという事が認められる社会になってくれたらいいなと思ったりしている。
 結局、ジェンダー差というのは内面化されており、みえないし、誰でも話したくはない。そのためか、ことさらにその話をしたがらない。けれども、内面化している部分を話せずにいるこの社会の構造の不自然さに自覚しながらも三者三様、なんとかやっている。気がする。
 佐々木さんも冒頭、「年取ると固まった人たちでしか集まらないじゃないですか。そういうのがないからいいよね。」と話をしていた。
 あと、言葉がうまいよねと言われる機会が何度かあり、それはそうしないと生きられなかったというのもあるし、教授からはそれで規定して判断する区別つけてるよね。と言われている。変わっていきたい。つねに。そういう渇望もある。