20220224

 この前の話し合いで、ユージン・スタジオの展示についてやり取りがあった。これは、ベタになったアプロ・プリエーションなのではないのかと。それに対し、ある人はそもそもコンセプチュアル・アートの最終形態はキュレーションなんだから、そうなるものなんだ。といっている。僕は展示をみていない。まわりのざわつきからそう感知する部分もある。けれどもこれは、作品の内容よりも鑑賞者について、気になるところがある。

 ツイッターでたまたまマッチングアプリに映える写真を撮影している人がいた。というツイートがあった。僕も以前、森美術館でそういう人に会い、立ち往生した。これは、どういった現象なのか気になる。
 2019年に行われた塩田千春の展覧会。ヴェネチア国際展の凱旋企画を手伝ったときにも展示後、この様な光景が散見された。これについて企画を手伝った後、レポートとして企画者に提出する機会があった。そのときは、インスタレーション作品とパフォーマンスの接点を観客側が動かしているという理解に落ち着いた。けれども以後、美術館女子問題などの大手メディアとの下品なシンクロなど、鑑賞者の立ち位置が「みえる化」されてきている。
 白井晟一の展示を見に行った人からも、確かに、美術館女子はいる。けれどもそれは消せない。デートスポットでもあるからだ。といっていた。
 美術館に来る人はどんな人なのだろう。写真と作品の関係が共犯関係にある作品とはどんなもんだろう。もし、あのキスをするキャンバスが参加型の作品だったらどうなっているのだろう。とか。あのプール、実際に入れないのかな。とか。変なこと考えていたりしていた。
 
 全く関係ないが、会社の経営企画部の人のスラックプロフィール画像東郷青児の油絵をバックに撮影されていたのがいつも気になっている。スノッブが効いている。東郷青児といえば損保ジャパンのイメージを抱く人もいるが、僕はどちらかといえば包装紙を思い浮かべたりしている。それにしてもモダンという概念はスノッブであるなと思ったりしている。それには、マッチョなイメージもあったりする。特にモダニズム建築の設計者はマッチョなイメージが強い。建築?全般がそうみえたりするときもある。それには空間を作るという共産国家の様な夢が背景にあったりする建築家がいたり、建設業者、土木のイメージからだろうか。
 
 ドライブマイカーもモダニズム建築が使われていたりした。この前、飲み屋で映画好きな人が黒沢清も車の映画だ。といっていた。外車。
 今朝、外車がサービスエリアでうるさかったため、封鎖したというニュースをみかけた。外車。モダニズム建築。モダン・アート。プール。どれもマッチョな性質を持っている。そこでどう現代の視点を加えればいいのだろう。ドライブマイカーは、どう男性が痛みを打ち明けながら過ごせるかという課題があったりした。ユージン・スタジオは映え。だった。現代的なテーマである他者性を表象に加える上での躓きを超えた先の表現方法とはどういったイメージなのか気になっている。

参考