20220225

 知り合いに、そゆこと、ブログに書くと評価落ちるよ、と言われて、これでも書き方すこしずつ変えているつもり。けれども、見返り求めていないし、何でも書いてもいいやと思っている部分もある。さすがにブログだからなんでも書けることと書けない所の差分は気になるところ。確かに、この人、殺したいです。と書いたとしよう。そゆことも書ける時代になっているものの、それによって何がしたいのかという話もあったりする。所謂、「絶叫」というものに近いけれでも。この「絶叫」とは如何なる問題を孕んでいるのか、僕は美術の視点からも考えてみたいと思ったりしている。

 学部の中間論文がジョセフ・コスースだったこともあり、そのときウィトゲンシュタイン読んだり、A.J.エイヤーいうイギリスの哲学者の本をかじるなかで、コスースが「絶叫」という問題について考えていたりしていたのか明確となった。この「絶叫」は「絶望」にも近い問題を孕んでいたとしたならば。どこにあるのか再度、確かめてみたいもの。
 よく、美術批評家が美術終わった宣言。を声を大にして上げるときがある。ようやく翻訳されたアートシンスでも、ブクローがアドルノを引き合いに現在の美術に絶望している。対談であるため、論客がおいおい、ちょまてよ(木村拓哉調)、みたいなちゃちゃ入れしてるのが面白い。
 この絶望とリア充のユージン・スタジオが相性悪いのはもともこもなくて、それでは絶望系に陥らないクリティカルな問題とは何か。そこを考えてみたいと思った。
 そもそも、見返り、返礼を求めて文章を書いているのだろうか。そこからまず始める。モースの贈与しかり、何かの返礼を期待するアーティストもいるのかもしれない。ただ、そこには何があるのか気になるところ。
 芸能人がアーティストとして各美術館に展示する行動も見返りを求めているのだろうか。一般人<芸能人<作家。なのだろうか。そういえば、小説家になる芸能人も多い。小説家とアーティストが同等なのだとすれば、それだけ現代は緩やかになってきているという事な筈だ。では、そこに対する批評はあるのか。確か、木梨憲武の展示に図録で原田裕規が文章を寄せていた。それはどんな文章か気になる。
 ただ、現実にはアーティスト自身、すこし変わった人、といった見られ方をしてしまう部分もあり、この前、大阪のスペースを運営しているアーティストとキュレーターのトークYouTubeでみたとき、日本はそうだけれどドイツは違ったみたいな事をみて、へー。と思った。
 日本だと、そうみえるから、大学教授で定職就いてますと説明しなきゃいけないけれど、向こうの場合、どんな作品つくってるの?というレファレンスが来るらしい。納得した。
 昨日、ロシア開戦の話で知り合いがTwitterで「ちょ、おま。」とツイートしている。彼はロシア好きが高じて、ドゥーキンを慶応で研究し、修士号を収めていた。元右翼。いまは、実家の版元を継いで編集の仕事をしている。
 その人とも美術館に行った事があるが、とびかんのキュレーション公募展がいくつか行われている展示だった。そこで、80年代、ポストもの派の展示では抽象的すぎて分からないと言っていたが、最下層の社会的な表現についてはこれはこういうこと?と様々な解釈で作品と向き合っていた。そのとき、作品の内容は具体的になっていくが、そこから抽象的に物事を考えていく手立ての補助線となる作品はないのか、考えられないのか、と思ったりしていた。それをロシア開戦から思い返す自分がいた。

P.S.多分、僕のレファレンスが上手く機能していない部分が大きいと思う。どうすればいいのだろう...

参考