20220316

 矢野さんの新刊を少しずつ読んでいる。町田康論を読み終える。山口昌男の道化の本と紐づけて書いている所が面白かった。いまは、いとうせいこう論を読んでいる。いとうせいこうが震災後、うつ状態になってしまい、蝶や花に名前を付けようと発したときに吐いてしまうという想像ラジオについての話が印象に残っている。

 矢野さんはそれについて代理表象としての言葉の運用から、言葉の機能がいとうにとって違和感を感じてしまうという話。この話については震災以後、何を発する事が可能なのかという問題意識として僕の経験にもリアリティがあった。
 震災以後に美大へ入学した僕は同世代の作家たちと社会や政治的な発言をなるべくしない様な空気があった気がする。それが安倍政権後のデモや検閲の時代を超えて、また異なった空気に変化した。そうした空気について、いま一度、考えてみたいなという関心もあったりする。
 森美術館で開催されたチンポムの展示や東京オペラシティアートギャラリーでの加藤翼展は、その震災以後の急激な空気の変化について作品を通してレスポンスしている様にみえた。
 チンポムでの広島や震災を扱った展示コーナーでは資料展示が併設され、作品評価の変化を辿ることができた。加藤翼展では、ともに物体を持ち上げる誰かの声がその時代を語っていた。そのシンボリックな表現が関わる人、声を出してそれについて語る人によって異なる造形へと塑像される。それを辿る展示についてこれからも考えたい。そういった気分にさせる矢野さんの語り口について学んでいきたいと思ったりした。

〈参考文献〉
矢野利裕『今日よりもマシな明日 文学芸能論』