20220322

 朝の列車。停車と同時に人がホームに降りる。その流れにのれないのかわからない。けれど着実に人が倒れるのはみえる。みんな助ける人と助けない人がおり、それを僕は見てしまった。

 また、元カノのインスタを開いてしまった。ネイルにラメが入っていた。

 こういう所が気持ち悪い所かと思って思い返したりする。確か、異動前の先輩で男に染まる女だったのかー、と話していたのを小耳に挟んだ。一瞬、そのネイルをみて、あれ、染まった?と思っている自分がいた。
 けれども、最近まで付き合っていた人がデカ目になるカラコンを付けていたときがあって、あれ、それ俺のため?と思って、その人にきいてしまった事があった。そのとき、僕の聞き方がキモすぎたところもあるのかもしれないけれども、自分のためだと話していた。自分のためでも非対称性が挟み込まれてしまい、モヤモヤした。けれどもこれを書いているのは、どこまで話せるのかという所な気がする。僕はどこまで話せるのか試してみたい。

 昨晩、絵描きの人は社会性がある人しか展覧会に呼ばれないと思う、と話していた。それを聞いて僕は自分が社会性がない人であるという事をいっているのか判別つかなかった。けれども社会性、正しさ、といった所とそうではない所、非社会性、正しくない、の二元論で判別している人の方が僕は少し恐怖を感じる。そのためか、押し付けではないにしても気になった所は話してしまう。それにしても、これでよかったのかな、と後々になって考える節があり、疲れてるのかな、男性の爆発なのかな、自暴自棄なのかな、と常に極端ではあるものの考える節があり、そこの所危うい。親の血筋?と思うときもある。なので、離婚も何もしていない安定した家庭に育った人が羨ましいし、多分、そういった人とは縁が少しずつ離れている実感がある。
 その間、中間性にあるのであって、加害者/被害者はどちらでもある、いつだって加害者になるリスクだってあるし、被害者になるリスクもある。そこに立ってものを考えるのか、そうではない所から思考するかによって眺める視点は異なる。僕は交差する視点のあいだに立って思考したい側でもあり、理念的な立場を築き上げるのでなく、できる限りなんでも話す様にしている。
 けれども、こういう言い方自体がひとつの「理念」になっているのだとしたならば、と考えてしまった。
 明日、産業医の面接を社内で受ける。今日は雨。寒い。そして節電。