20220421

 帰って、マツコの番組をふたつみた。

 ひとつは、かりそめ天国。お便りが来ており、旦那がよく、映画をみて、あの俳優、がんばってるなー、とか、あの店員、がんばってるなーとなり、どうも映画のシーンやこれいいよねと簡潔な話にならない、この人、どう思いますか?といった内容だった。

 マツコは確かに、男性の人はストーリーを語りがちだよね、となった。番組調査によれば、男性の方がいい、と思って買うよりも、何年も造られ続ける時計、などの物語にこだわるというのだ。寿司屋に行っても、確かにここの産地が、という会話で盛り上がらない、冷たい対応されてしまう人、について思い返してみていた。とにかく、店員と話したい、けれどもその話がうんちくになってしまう。それが男性の場合、長い。

 番組の中では有吉がGGの元編集長の人は、うんちくおじさんだけれど、風格あるな、と話している。マツコもあの人はもうその人自体が物語だから、と話していた。物語、やだなー、と書かれたある女性の日記を思い出したりしていた。絶対に「物語」というフレーズを使われたくないらしい。確かに、男性の人は凝り性で僕もこゆ日記書いてるのもそゆ所なのかなー、と思っていた。

 立て続けに、夜ふかしをみる。時間帯が変わって、下ネタが少ない。番組で探した人の中で気になったおばあさんがいた。自分のご飯はとにかく何を作っても不味い、と言ってしまうお婆さん。何を作ってもまずいというので、番組のスタッフがその人の自宅に行き、味噌汁を食べるという話だった。見る限り、大根の味噌汁は変に見えない。お婆さんも食べている間、美味しいわね、と言っている。けれども、何か悲しそう。どうやらスタッフと食べて感動して涙を流している。いままで、1人でご飯を作って食べていたため、美味しいのか分からなくなっていたという。

 マツコはこのVに対して批評する。

 あんたたち、スタッフでいいことしてると思ってるんじゃないわよ、と。確かにそうだ。この人は本当にそれで救われたのだろうか。家族というものがないという事が不幸であり、家族、あるいは他者と会話し、食べている時間が楽しかったと思わせかねない。ここで、家族の在り方、ないし1人であり続ける事が不幸なのか、いろいろ考えさせてしまう。

 もしかしたらこれは、感動ポルノだったりするのかもしれない。家族という構造に巻き込まれ、そうした人はこの人に手を差し伸べて、なんて可哀想な人という見方をしてしまう。けれども、果たしてテレビの消費のされ方はステレオタイプの動きを意識するだけでいいのか。

 もうすぐGWが始まる。けれどもGWでも仕事の人はいる。僕も一昨年、そうで、GWの雰囲気が嫌だった。それと、土日に合わせて盛り上がる雰囲気とも距離がある。なぜだろう。