20220502
市役所に用事があり、市役所の待合室で数時間待っている間に気づいたことがあった。番号カードをみたら「522」だった。
夕方、銭湯に行き、その後、ホン・サンスの「自由が丘で」をみた。吉田健一の『時間』を加瀬亮が読んでいる所が気になった。いま、「夜の浜辺でひとり」をみている。
ついさっきまで、シーシャで画家の人と話していた。そこで、ユリイカのリヒター特集の話になり、知り合いの女性の文章を書いている人が批評を寄せていた。あの人がやろうとしているのは男性言語の読み替えでもあるのかと思い、何故か好感を持ってしまう。なんでだろう。
そもそも、コンテンポラリー・アートは男性言語と相性がいいというのをアートシンスでも書かれている所があった気がする。それをどう読み替える。そもそも翻訳もその人が読むという行為も翻訳の主体の話であり、どこからどこまでが読んだのかも分からない。