20220521

 東京都現代美術館の展示に行こうとするも、やめる。ギャラリーならあまりお金がかからないと思った。作品を買わないでみるだけは良くないのだろうかと思ってしまう。

 学部の先輩がインスタのストーリーで「美術館、ひさびさにきた」という言葉と大阪、中之島の美術館の写真がアップされている。これは、以前、フェミニズムズム展の展評を引き受けた成田さんが「フェミニズム、なんか怖いよね」といっていたのに共通して読めた。
 確か、学部の先輩はアートマネジメント寄りの勉強を大学でしていて、様々な「地域」と称される場へ赴き、地域と美術について考えるというスタンスを明らかにしていた筈である。そのため、周りにも「美術好き」な人がいると思う、そういう人に「美術館、ひさびさにきた」は刺さるのかなんとも痛い雰囲気がした。
 これが成田さんの場合、フェミニズム寄りの人が読む媒体にそう書いて、変な棘を示すという更に痛い構造があるのだけれども、とにもかくにも痛さがその投稿にはあった気もさせる。
 痛さ、とはなにか。90年代のYBAは痛さを感じさせるが、その痛さが実際のリアルな人々にもSNS上の空間でもあるのではないのか。それを共有してしまうという危うさ、投稿自体が痛い象徴であるのであれば、それしか投稿できなかった事への痛さもある。
 ならば、会社員においての痛さは距離を取られる対象でもあり、あいつ、痛い事してるよね、というのをなんとか何も考えずに交わしている気もさせる。それよりも、自分が何をしたいのかを明確に言える人であれば、苦労はしないのかもしれないが、模索しながらも書いている。そのとき、自己啓発セミナーは頼りになる存在でもあるが、第三の..とか色々読んでもいいのかもしれないと思ったりしていた。

 そう思いつつも、展示を見てまわった。αMの展示をみて、そこから日暮里の方まで行き展示をみて、歩いて銀座まで、途中の珈琲館で伏見瞬のスピッツ論を読み切った。
 スピッツは破裂音で作られたバンド名であるが、そこから椹木野衣のスキゾフレニックな日本論と紐づけているのが面白かった。
 根津から銀座まで歩いた。朝はどしゃ降りの雨だったけれど、すっかり晴れている。午前の雨のときに駅のホームでフラフラしたりしていた。
 日動画廊鴨居玲もみた。画廊が売らない絵もあるんだなと思った。
 銀座から六本木に移動してタカイシイギャラリーの展示をみた。亡くなった後に発見された作品。なにも作品について語っていなく、ギャラリーの人も分析中、だという。
 途中、ポロシャツのおじさんがバシャバシャスマホで写真を撮りながらギャラリーをめぐっていたのが気になった。少し、ジミー大西に似ていた。