20220528

 そういえば、この前、朝のニュースで7泊8日の旅行に出て交通事故でダメだった夫婦がニュースに出ていた。事故を起こしたのは老人で起こしてしまったという加害者側の気持ちも分からない様子。事故発生当時、起こった後に老人と夫婦がやり取りをしていた映像が妻によって撮影されており、旦那側はインタビューでは見えないような怒号を老人に浴びせていた。老人はまぁー、とかうーん、と言いながら温和な口調で接している。その温度差が気になった。多分、旦那側は妻の誕生日だか、結婚記念日だかというのを大切にしたい正義感と損傷がブッキングしてその怒号が飛び出たんだろうなとか。思ったりしている。それも神戸と京都旅行。

 品川駅で天然コーラを買い、神戸に向かう列車で飲んだ。酸味と甘味が別々に響き合っていて、分離している。それがジャンキーでもあった。車中で読んだロザリンド・E・クラウス『アヴァンギャルドのオリジナリティ モダニズムの神話』で「ピカソの私的な力ー彼の愛人、家、詩人、讃美者たち、犬(そう、犬!)ー」というくだりがあり、原文でも(そう、犬!)と叫んでいるのか興味があった。

 どうやら、メリケンパークでKOBE MELLOW CRUISE 2022の開催があるらしい。午前中のtofubeatsをAbemaでみた。tofuさんが丁度、ここから数十分の所に住んでたんですよー、と話している。昨日もtofuだったけれど、犬をパートナーが飼っており、そこで初めて犬を飼う経験をしているという。犬を預けている人たち、家族と称される人たちと共に出かけたりしており、どこかPTAのクラブみたいな印象を持った。犬は家庭を変える。

 神戸についてレンタサイクルを借り、街を散策した。メリケンパークのある元町方面から抜けると、横浜の大黒埠頭みたいな情景がある。母型の祖父がよく、通信士としてだいこくふとう、だいこくふとう、と言っていたためかそこが当時の船乗りの職場であるという認識だ。陸地はレジデンスマンションの様な出立ちのビルがいくつかあり、tofuさんの家庭環境が窺い知れた。

 兵庫県立美術館に着いた。コンラート・フィッシャーコレクションの展覧会が開催している。このフィッシャーさんという人物は元々アーティストだったらしく、ゲルハルト・リヒタージグマー・ポルケと共に資本主義リアリズムの展覧会を開催している。それからというものギャラリーを開き、サイトスペシフィックな作品をアーティストと共に展開する動きになる。初めの展示はカール・アンドレだった気が。

 いまでいう、アーティストレジデンスの走りみたいなものが展示からみれた。初期は作家性の排除を謳ったミニマリズムが庭師の様な作家、オラファー・エリアソンかな?と思ったけども出てきたりしている所が空間の拡張性を求めるアーティストの動きとして面白かった。

 展示の最初にアンドレの鉛の作品が床に結界線もなく展示しているため、鑑賞者は踏みそうになる。踏みそうになるのを監視員が止めるというのが数分間に何度もみかける。展示室で視覚障害を抱えた人がおり、杖で突きそうになった所を回避していた。監視員が大丈夫ですか?と声をかけるもその人はある程度みえるらしい。けれども本当に見えない人は杖で叩いてしまうのではないのだろうか。

 大学の頃に原口典之のオイルプールの監視員をしていたときがあり、そこで偶然、僕が目を離したときにヒールを履いた女性がプールに足をつけてしまったことがある。その人は鏡かと思って踏んでしまったという。鑑賞という動きには、誤配がつきものだとそのとき考えていた。

 常設展の元永定正の展示もみた。絵の具を用いて様々な表現を繰り返している。けれども最近、マーブリングという絵画の手法や丸山直文がやっているステイニングなど、技術の発展により元永の技法もエンタメ化してきている気がした。誰でもできる元永よりも、色でマーブリングしてみようの方が集客できるのかもしれないと思ったりしていた。当時としての色遊びとして元永の作品をみてもいいのかもしれない。

 横尾忠則のコーナーでは蓮沼執太のアルバムで使われた作品も展示していた。2階の小磯良平の展示室はみないで、そのまま元町に行き、イカの天ぷらを食べ、大阪へ向かった。メリケンパークのライブは結局行かなかった。横浜で同じ様なメロウ系フェスが無料で開催されるからだ。6月の初旬あたりに。道中、椅子のクッションとクッションの間にスマホを何度も落としてしまう。

 大阪について、京都市京セラ美術館で森村泰昌の個展をみた。会場構成は知り合いがやっていて、ロニ・ホーンも同じ人だった気がする。カーテンとカーテンの間をすり抜けながら通る感覚がデヴィット・リンチがカルティエで開催した展示構成と似ている。行ったことないけど。

 空間はどこからでも出入りでき、森村のパーソナルな視点としてもみれる。言い方は失礼かもしれないが最近の森村作品の展示では歴史に逃げ込む傾向があり、そうではなく、今回はいつもとは異なる展示構成な気がする。入れ替えで鑑賞可能なサウンドインスタレーションが面白かった。森村自身が学生の頃に友達だった人が消えていたという経験から弥勒とつなげてホラーを作るという作品だった。改めてホラー作品見返そうかなと思った。中島哲也の映画、「来る」からホラーについては少し関心がある。何かとホラーも貞子さんなどエンタメ化されすぎてアトラクションみたいになっており、実際、僕も入った瞬間にTDLホーンテッド・マンションを思い起こしていたからだ。

 森村展は結局、鑑賞を45分で切り上げ、そこから京都国立近代美術館鏑木清方とコレクション展を30分で鑑賞した。

 そこから、サウナの梅湯に向かう。道すがら、猫が道のど真ん中で寝そべっており、地元の人がみている。思わずスマホで撮ってしまい、地元の人がみんなで保護猫として守ってる猫なんだと言っていた。猫は地域を変える。

 サウナの梅湯は最近改築オープンした所でそれまではヤクザ風呂と呼ばれていたらしい。旧赤線地帯に位置し、向かい側がヤクザの事務所だった。それにも関わらず、オーナーは会社を辞めて立ち上げたらしい。オープン当時は温度調節もままならず、お金が全て修繕費で消えていったらしい。最終的に漏水が発生。1年後の5月に閉店しようと考えていた所、漏水の業者が腕のいい人でそこから挽回したという。営業時間を朝から深夜まで伸ばし、人件費の回復、2階にタトゥースタジオを作るなどしたらしい。そのためか、客層が若い。サウナも銭湯代金の450円で入れた。中の建物もユニークな作りとなっており、サウナの部屋が石彫がどこか村野藤吾の建築を思わせた。それは言い過ぎか。

 サウナを出て、ニシン蕎麦を食べ、お土産に赤福を買って新幹線で帰った。

 

<参考>

「ヤクザ風呂と地元で呼ばれていた」 24歳のアパレル職が、京都「梅湯」経営者に“転職”したワケ | 文春オンライン