なにかと天気が晴れ時々曇りであったり、
早稲田大学のハラスメントを起こした教授の現状とどうしてそうなったのか、といった文章を読むことができるページがあり、それを読んで「俺の女」というページが気がかりになった。どうやらその教授に対して告発した「女」が離婚後、大学院を受けてそこから作詩の勉強をしていくという話。とても文章が上手い。小説みたいに読んでしまう。
知り合いの同棲を別れた「男」が結婚前提にお付き合いをしていた事に対する不満があるらしい。けれども、もともと男/女の価値基準であったり、なんであんたの元にいなけりゃいかないんだってなっている。それは僕の母親が「男ってしょうもないんだ。わたしは強姦とか受けたし、もう酸いも甘いもしっている。棒なんかふってるのも何度もみている。」とひたすら酒をのみつつだべっていたのをかれこれ幼少期から聞いていたからだと思う。
それでいえば、中学生の頃に小説ばかり読んでいる母親の知り合いの女性がいて、村上春樹はこの辺りからおかしくなっている、と言っていた記憶があり、その光景が「男」を断罪するてつきとに見えた。
風の歌を聴けはまだ分かる、けれども海辺のカフカだったり、それ以降はだめになってきている。ノルウェイもあまり、ねじ巻島クロニクルが一番いいという評価だった気がする。その話をしながら赤ワインを何本も家で飲んでいるのが少し怖かった記憶があり、女ってみんなこうなんだなと思っていた。
そか、最近、右翼だった友達に女がさーって、いったらその言い方からしてダメだろとジェントルマンみたいになっていた。
たまたま、深夜にスペースに入ったら岡崎乾二郎さんがスペースにいた。誰かが岡崎さんの話を熱心に聞いている。
はい、はい、やっぱそうですよね、はいー、、
大先生のお話をありがたく聞く。
僕はこの人の話し方を聞いて、何かに囚われているのではないのかと思った。美術は批評がなければ美術がない、岡崎さんの言うことは絶対だ。
確かに岡崎さんの絵であったり活動に美しさが備わっている。けれども、古い。スペースでも作品出したから社会のことを考えていると話している一方で、作品は絵画であったりする。そのペインティングと批評を分離しているのが気になる。
けれどもそこよりも同調者が何かと大先生と持ち上げる。いいおじさんを。