20220626

 たまに脳が通常の脳であったのなら、身体が通常の身体であったのならと、ふと考えてしまうときがある。これは院生の頃、発達性の相談所でみせてもらった人生のステップみたいなものを図に表したもので、進学、就職、結婚、出産という事柄が絵と文字で作られていた。これをみて、そのステップに果たして乗れるのかと思っていた。

 会話を合わせられない。会話があったとしてもお金を合わせられない。向こうの機嫌を損ねた。
 まいどまいど、躓くところを周りの人は受け止めないで単純なミスとして考えている。
 
 暑い。

 そんなにお金がないにも関わらず、昨日もコンビニでお酒を買って夜に飲みながら歩いていた。このお金を別に使う頭のつかいかたをしたかったなと思ったりした。
 院生の頃に別れ際に元カノに「どうやって、今後、彼女とか作ればいいの?」と相談したことがあった。そしたら、こちらから誘えばいいのじゃないのかと言っていたものの、女性側からと比べて男性側から声をかけたらあまりよくないのかな、と思ったり、そんなにお金ないもんな、と思ったりしていた。
 消極的な考え方をどうしたら消せるんだろうな。これもこれで自分のことなのかな。

 上野についた。その前に、nhkスペシャルの放火事件を起こした人のやつの内容とかみたりしていた。加害者側の意見であったり、苛立ちみたいなものが気になっている。今度の現代思想の特集も加害者らしい。
 国立西洋美術館の展示が2000円して、国立の美術館はどこも2000円なのがきにかかった。リヒター展もそうだった。けれども、税金を払っているのに更にお金を取るという構図が頷けない。
 藝大の長谷川祐子退官記念展をみた。小谷さんの作品は分かりやすいと思った。エコロジーという抽象的なお題に対して、出展作家、その隣のキャプション(長谷川さんではない別のキュレーターが書いている)が応えている。応えている内容には地産地消システムや生態系、動物との関係、有機的なもの、光などの多角的な視点が「エコロジー」という名の下に付随している。ちなみにこちらは1000円だった。
 東京都美術館スコットランド国立美術館展は2000円。地下のグループ展公募の展示をみた。無料だった。
 降りてすぐのペインティングの展示ではこの前αMでみた虎だったりパイナップルを頭に乗せた人物像の絵を描く人の作品がよかった。地下3階辺りの展示では知り合いの展示も行われていた。いま住んでいる地元の作家の記念館を建てるらしい。そのデモンストレーションとしての展示でもある。自分の身の回り、家族を株式会社に見立てて展示する人の作品がなんかよかった。知り合いの映像作品ではプロジェクターがすごかったため、じっとみてしまう。
 その隣の日本画についての展示では。小沢剛の油画茶屋みたいなコーナーかなと思ってみていた。
 中央公園で角打ちフェスをやっていたため、除くも、ムードに合わせられず回避して、ニューデイズでビールを買って外で飲んでいた。そしたら、女性陣3人が「お金がなーい、お金がなーい」と行進していた。
 院生の頃の後輩が近代美術館のパーマが特徴的な学芸員さんの人と学芸員実習のTAとして昨日、訪問していたという。そのついでにリヒター展もみたというが、リヒター展も図録とあわせて6000円程の値段らしい。
 メトロポリタン美術館展は2000円でもいいのだが、どうなのだろう。行ってないのでなんとも言えないか。国立西洋美術館もそれくらいの値段らしい。
 値段と展示の釣り合いでいえば、コロナ禍で美術館が休館してしまった事も大きな影響を受けたりしているのではないのかと思ったりしていた。ほんの、200円の差額。いや、1600円くらいの値段ではなかったのだろうか?それにしても高い。
 上野に行くみちすがら、町屋良平の『1R1分34秒』を読んでいた。うだつの上がらないボクサーの話なのであるが、ここで何故か映画監督志望の友人とやらがでてくる。この友人はスマホで撮影した映像を編集するというYouTuberみたいな映画を撮るという朝井リョウの小説にも出てきそうな人物。この人物と美術館に行くという話があり、そこで主人公のボクサーが「誘われるがままに行って、美術館の名前も何をみたのかもだいたい忘れてしまうんだよね。」と映画監督に話す。それに対し、「ぼーっと何も考えていない時間。それでいいんだよ。美術館で過ごす時間なんて。」みたいな返しをしている。ここを読んでいた。
 中学生の頃に一日5館くらい美術館をみて周るという無料入館の特権を行使していたときがあり、そのとき、ガス欠みたいな感覚に襲われた時がある。この絵画のこの作品のこの意味、内容がという話が重要なのに。世界観が、この館が、という単一の作品が内包している意味内容よりも空間、世界観という漠然としたスケールに苛まされる。このとき、インスタ映えで狙った写真、キマっている現代美術をハッキングする感覚が大切になってくるのだと思った。
 けれども、そこまでして美術館に足を運ぶ必要性はあるのか?特にない。美術なんて必要もないし、なくても生きていける。けれども誘われてぼーっとする時間に何らかの意味が事後的にでもある/ないに関わらず、そこにいた、だけがおっきかったりしないだろうか。
 そんなことを考えながら、上野から新宿まで行って、乗り換える間、紀伊國屋書店で群像の立ち読みをした。ウーマン・リブの運動についての論考があり、野坂昭如バックラッシュをしているのでは、という内容がチラついた。そこではバックラッシュを起こすということ事態がフェミニズムを新たな形で構築するという内容にも読める。そして、高度資本主義社会のなかで、資本主義事態が内包する平等性はそれぞれの立場を肯定する他方で、排他的な差別も起こっており、アンビバレントであるという一節もあった。この筆者。よくみたらこの前、マッチングアプリ経由でラインを交換した人だった。
家に戻り、卵を購入してチャーハンを作って食べた。
 また、外に出たくなりうずうずして自転車で森林を目的に駆け巡った。メッツのチェリー味が自動販売機限定で販売していた。街灯が木々の葉を照らしている。
 迂回してまた自転車を漕ぐうちにあれとあれとあれとが家にないから購入しないと、と思いついてスーパーで購入した。
  スマホを覗く。元教授がフェイスブックでアーティゾン美術館の展示はリヒター展よりいいのでは、と投稿している。今度、行ってみることにしようと思っている。
 リヒター展は出品内容を見る限り、感光について考える内容となっている。けれどもリヒターはナチスの社会的な背景を筆を通して向き合う醍醐味みたいなのがないとダメなのではと思ったりした。それでもやっていることは美術史の再生産に収まってしまうというカタルシスがあるのだが、その男性の抽象画家のカタルシスを味わいにいくというのも気が引ける。となるとアーティゾンの方がみたいなと思ったりしていた。入館料が安いという利点ももちろん付随している。