20220628

 滝口悠生の『高架線』を少しずつ読んでいる。腐れ縁が伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』が好きで高校の頃によく読んでいて「それ、何が面白いの?」と聞いた所「関係ない人たちが少しずつつながっていく所。」と言っていたのを思い起こす。

 『高架線』も古いアパートの中に住んでいる人たちがそれぞれの胸中を語る筋立てになっている。それに引き込まれる感覚が面白いと思ったりしていた。
 会社の先輩が「他の会社に行っても...」が口癖になっている。表立って言われてもとなっていた。
 家に帰って何作ろうかとなって、豚のブロックがあまっていたため、安価なゴーヤチャンプルを作った。ビールを買っていなかったものの、禁酒しようと決めておきながら、コンビニでビールを買った。料理を作りながら飲んでしまう。
 ゴーヤチャンプルを作って思ったこととして、チャンプルの豚は小間切れがいい。ブロックはやはり、角煮以外合わないのではないのかと。
 たまたま付けたアメトーーク。ダンス芸人だった。うまく踊れない。けれども踊る。それが身体の硬さと比例して実体化する。踊れない。踊る。踊れない。踊る。これらを反復しつつもクネクネしている。
 クネクネした動きをしている芸人は別のキレのある踊りをすぐに体得して踊れている。これが本来と異なり、アレンジもしたりしている。
 踊っているのか曲に踊らされているのか分からなくなってくる。振付師は踊らされていると思うのだが、主体的に踊っているってなんだろう。踊っているフリがうまくなったりするのかな。
 ここ最近、生態学アフォーダンス理論との接近が激しい。これはまだ発表されていない原稿で、後ほど8月か9月頃に出版される原稿になる。さっき述べた踊っているのか踊らされているのか。これは平倉圭などの文章を読んでいるときも読んでいるのか読まされているのかわからなくなるのだが、平倉さん自身もアフォーダンス理論を体現しているのではないのか。なので、僕自身、平倉さんを「芸術理論の人」という位置付けよりも「佐々木正人などのアフォーダンス理論の人」という紐づけ方をしている。
 これには生態学の理論も介在している。高校の頃に西田正規の文化人類学に触れ、それからアフォーダンス、いいなー、となっていたときがあった。巻き込まれる感覚がその理論にはあった。能動的なスタンスよりも受動的なスタンス。これが当時、稽古していた合気道の構えともつながったりするのかなとも思っていた。
 内田樹合気道を西洋哲学から切っていく方法をとっているものの、アフォーダンス理論から合気道を切るとするなら、なにか方法がないだろうかとも思ったりする。構えひとつから身体と周辺がつながるという一瞬、一瞬に武道があるのだとしたら、宗教的な捉え方、神秘主義も理知的に再考可能ではなかろうか。そんな期待をしていた。
 以前、ベイトソンの『精神と自然』を読んだ。ここでも、「線引き」についてが曖昧となる。言葉を使用するという事は分節化を意味し、これが社会的な振る舞いを促す。だとしたら、言葉を使用する事事態を疑ってはどうだろう、という方法をダーウィンの進化論ないし、これまで辿ってきた文明史観を解体する方法から旋回してその問いに返っていく書き方は、この本が雑誌の文章であり、ライトに書ける媒体であったからこそな気がした。