20220711

 特にこれといって「やること」といえば、朝と昼と夜に弁当を1階まで取りに行くことと、朝と夕方の体調報告のみだ。それ以外は本を読んだり、映画を見たりに費やしている。今日は今週の日曜と月曜に開催されることばの学校の展示に向けて、何を出展するのか決めたり午前中はそれで埋まり、午後は町屋良平の『1R1分34秒』を読み終えたりした。

 午前中、chim↑pom森美術館で開催されていたトークの映像を見ていたりした。トランプの話をしていたりしていて、そこで今となってはあまり聞かない現象の様に聞こえたりしている。そんな中、コロナで療養期間の間に何をしようか考えあぐねていた。谷口ジロー夏目漱石についての漫画を思い出したりしていた。

 町屋良平の小説は町田康の解説が面白かったりしていた。「男性」の勝ち負けについて話していて、結局のところ勝者は勝ち負けについて考えていなく、そこに何らかの暴力(目の前の奴を殴り倒したい)が発生しているという話だった。この小説自体、連敗するボクサーの話になっており、ボクシングよりも映画監督や森美術館で開催された韓国の現代美術展に向かうなど、勝ち負けと異なるシーンの連続がある。よく、僕は学部時代に負けたー、勝ったーと学部のときに口癖みたいに言ってしまう場面があった。周りが、同性が?言っていたのを何も考えずに刷り込まれていたのかもしれない。そのとき「女性」に「そんなこと、こだわるんだね。」と言われたの思い出したりしていた。

 夜に弁当を食べてニコラ・ブリオーの『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』を読み終える。ブリオーはこれまでの前衛が「爆発」や「破壊」という暴力によって構築されていたけども、これから、ポスト・モダン以降の方法として翻訳があるのではないのかと指摘していた。確かに、運動は欲望を喚起させるリビドーがある。けれどもそれ以降には常に周囲との架橋が盗用、シュミラークルよりも緩やかな方法で成立するのだとしたら、何があるのだろう。弱さ、やもう少し異なる語りや共同性のあり方について考えたりする方法が求められる気がする。それは何か僕も模索しながら文章とかを自分の事といっしょくたにしながら、自分も混ざりながら書いたりしてるのかなとか思ったりしていた。

 たまたま、ツイッターを開いたら哲学者の千葉雅也さんがスペースを開催していた。この前のサイゼリアについての炎上について話している。そこで90年代のファミレスの情景について話しており、ホンマタカシの写真であったり「あの頃」の風景は文学に留める事しかできないと話していた。『デッドライン』もそうした匂いがあり、『オーバーヒート』はどうだったのだろう...読んでいないから読んでみたいなと思ったりしていた。

 別のアカウントが岡崎乾二郎と話している。ある院生が「僕は学部では現代美術について触れていなかったのですが、院生になってからヴィト・アコンチについて触れた。現代の作家はヴィトについてどう触れているのか。岡崎さんの頃はどうヴィトに触れていたのか。」と質問していた。そしたら「そもそも、その設問自体が間違っている。僕にとってヴィトはロックと同じで共通言語なんて存在しなくって、それは自分から見出していった。特にヴィトの場合、イベントなのでみに行けない。そのため、写真を通してしか知れない。その前に僕らの頃は三島由紀夫がいて、そこで物心みたいな感覚の限界みたいなものを感じ取っていて、なのでもの派とかは遅いし、三島の後にこれをやるのかと思っていた。」と話していた。

 現代において、ヴィトは内省的な男性像のメルクマークになっていると僕は感じていて、それをみて、色々考えていたけども、三島から考えてみても別の捉え方ができるのではないのかと思っていたりしていた。別々の時代とそこから見える情景の拮抗が周りでおきつつも、それをどう当事者として捉える事ができるのか、「周りを知れるのか」悩んでいる。