20220728

 昨晩Googleのデータ容量がオーバーしていたため、ビールを飲みながら画像やデータを断舎離していた。すると、以前、企画したときに預かっていた作家の画像などが入っており、この人にとっての黒歴史だったらどうしようと思い、保存するのも困難だと考えて削除していった。どうなんだろ、作家は自信を持って作っていっている作品を数年経った作家が見返したときに「当時はね...」と顧みる。回顧展というフォーマット自体がある種の作家自身のPRにもなっているのかもしれない。

 コレクターという人たちも作家の作品を保存するのであるが、数年後の責任もあったりしないのだろうか。そのため、美術館に寄贈できる説得力があるコレクターは文化を守る意識があったのではないのかと思う。そこまで含んで絵を買うという方法は、僕にとってリスキーであるけどもコレクターが何を根拠に「自分のコレクション」と呼ぶのか気になっていた。それもその筈。元々、絵画を所有するというのは雑にいえば特権階級のPRでもあった。
 こう言いつつも「絵を買うこと」を批判している訳でもなく。そこに付随するリスクであったり「欲しい」と思える、思えたという認識の違いが気にかかる。それにどこまでこの作品を持っているのだろうと考えたりする。ちなみに、元カノにあげた絵を元カノは転売するのではないのかと危機感を感じて家に行って返してもらおうとしたら通報されたのだけども。
 それはさておき、コレクションはどう築いているのか、展覧会でみかける「〇〇コレクション」という社会的地位をみせたいのか、企業のPR、個人のPR、購入する欲望、金銭欲、といった様々な欲望が絡む。そこの判定基準として、僕は文化を築き上げる意志があるのかないのかな気がした。
 こういってしまうと強い言葉であるのだけども、結局はそこしかない。ただ、そこまで広いのかなとも思うし、そこまで自分の眼を信じれるのかも分からない。下手すれば残るか残らないのかでいえば、残らない買い物を強いられている。推しを推せるのかという話にもなってくるのだけども、それにしても作品を買って、見せるという意志はリスクもあると思って買うことはできないなと思った。
 NFTの表現がどこまで広がるのか分からない。けれども地域通貨であったり、柄谷行人のNAMがやろうとしていた方法は、新しい世界体系の構築をコンセプトにしていたのではないのか。常にその場限りで消費され尽くしてしまうこの資本主義社会に対して。若手作家の青田買いみたいになっているギャラリーもあまりどうなんだろうと思うときもあり、それは美術に関心があるからなのか、その作家のヒロイックな存在なのか、それなら作品はそれに付随するものとなり、作品とは、その効果とはとなっている。
 特に社会人になってから美術館に行くのは忙しくて限られてしまい、異動前は閉館時間の早さについて考えたりしていた。つまるところ、大学生を最後に美術館から遠のいたりするのではないのかと。となるとギャラリーなのだろうか。怪しすぎる気もした。
 つい昨晩福島県立美術館が資金難でこれまで担保していた数億円が底をつき、新収蔵品の購入点数を増やすプランを国に提出したものの、できないことが発覚したというニュースをみた。これは昨今のコロナが影響しているというが、ブロックバスター展しかり、美術館に足を向けるという態度が何かきになる。アレック・ソスの展示を行こうとしたとき「ひとりで行くの?」と聞かれたことがあり、美術館はひとりでも行きやすい所なんじゃないかと思っていた。
 どうなんだろう。入館料が上がってきており、そういった人しか入館できなくなってきているという事もあったとするならば、より「おひとりさま」も入館しにくくなるのかな。
 日記を書いていて思うのが、多分、こういった井戸端会議みたいなものを僕が好き好んでやっていた訳ではなく、元はと言えば元カノとLINEでやりとりしている所で開けていって、そうした変化もあるのかなと思ったりしていた。噂が好きな人で、噂みたいなものを書いたりしているのだけども。この噂を別の人に別の方法で、非公開で、ストーリーで、噂をしていたりしないのだろうか。
 すべて憶測と偏見と差別が混じっているのだけどもそれもその人らしさというか、そうしたなかで「女性」「コミュニティ」に所属できるとすれば、それもひとえに才能なのかもしれないと思ったりしていた。以前、知り合いに阿川佐和子が嫌いらしいといったら「同族嫌悪なんじゃないの?」と言っていて、同族嫌悪する人なのだろうか、と思ったりしていた。その人は「私にはこうしたアイドルみたいなアカウント持てないし、こういった作り方できる人は自分に自信があって、強い...」と話していた。
 かくいう、こうした愚痴みたいなものを披露していく。多分、言う人がいないというか、誰も聞きたくないのだけども、その度に傷口が広がっていく感覚もして、ここに投げっぱなしになったりしている。公開して次々と溜まっていく方法が自分の心境の変化もみれていいのかなと思った。というか、それが日記なんではないのか。
 強さに対して強い言葉で接しなければならない必要性というのはどこまであるのだろう。別にしなければいいのだけども、単純にいまの職場で仕事がないためなのか。このままいると独り言を話し続けて周りに「変な人」と思われて終了パターンな気がしてきている。
 書いてて思ったけど。それぞれなりの言い分があってもいい気がした。これでまたなんかあったら務所にいこう。