20220729

 昨晩、作ったカレー。ナスを素揚げしておけばよかった。この前の冷製パスタもタコときゅうりを入れたいと思ったり、リベンジが立て続けに待っている。

 家の中をみてまわるとポトスが増殖。トイレ、デッキ、それぞれにそれぞれの増やし方。鉢と土をAmazonでいくつか購入。ベランダは日当たりが良すぎるので窓際にもうひとつのポトスたちを設置予定。家の中の観葉植物はポトスのみで、トイレにいるポトスに「増えるな」と注意した。
 昨日、書いた日記を読み返してみる。「全て憶測と偏見と差別」という刺すような言葉。差別はマジックワードでもあるが、元カノに実装された憶測と偏見はもしかしたら彼女の周りの眼差しだったり、無意識の中にある圧力だったりしないのだろうかと頭を一周させていた。そして、「ある種の警戒」と思いつく。
 バチェロレッテの最終話もみた。親に合わせるとき、相手の人が来るまで女性の顔が硬直しており、会ってから何事もないかの様な顔に移り変わる。この変化について別の男性に打ち明けている。中学の頃、イジメにあって円形脱毛症になり、そこから長女という立ち位置も相まって、「強く生きよう」と思うようになったという。そこで相手方の人が「弱くてもいいよ」といっている。直接言っていないが、見る側からは彼女の実装化された価値観を意識させる内容。
 通勤中に読んでいたボリス・グロイスの『全体芸術様式スターリン』が読み終わりそう。いま、イリヤ・カバコフについて書いているあたりにいます。カバコフが引用したのはウィトゲンシュタインの「親類的家族」。グロイスはポスト・モダンの思想体系に併用可能と説明する。これはポップ・アートなどの同時代的な傾向でもあり、意識でもあるのだけれど、そうした切り口で語ったときに共産主義国家、ソ連の時代までフラットに演出されてしまう。
 グロイスはその「同時代性」という括りでフラットになりかねないを過去の前衛、それがスターリンがいた頃なのだが、そことのつながりで文章を作っている。
 途中、70年代のロシアで広まった詩について書いている。そこでグロイスは主に、詩人が警察に成り代わったり、警察を詩人側の光景で描いてみたりという内容の詩を創作していた事について触れている。ここでスターリンの時代、共産主義の形態、共同体の視点を作家自身も内包しつつ表現する空気が伝わるという。この「なりすまし」がある種の警戒、警告を意味しているかもしれない。
 東西冷戦時代に過去のスターリンを掘り起こし、そこからいまがある、という立ち位置を意識させる。そこの「いま、ここ」に対する作家からの警戒意識。作品を通しての警告。それが「前衛的」と思われる一面ではないのかと理解した。
 けれどもその警告意識も男性性のマチズモをいまとなっては考えさせられたりする。それはグロイスという書き手自身が実装している全体主義国家などでもあるのだが、書き手、語り手の身体からどう離脱する事ができるのか考えさせられたりする。そのとき、デリダあたりが用いた家族意識からの離脱について触れたり、考えたりしたら有効なのかもしれない。