20220731

 この前、知り合いが鍵をつけて一瞬「離婚した親の子供でしか分からないのだけども」というのを前口上に「私はまだ「結婚」とかよく分からないのかもしれない」とツイートしていたのをみかけた。自分はバツイチ同士の子供であるのだけども、バツイチしていないで生まれた子供とそうでない子供の「結婚」に対する重心の持ちようが違うのではないのかと思った。

 今日は母親が家にくるため、早めに洗濯物をしたりしていた。そういえば、親を家に入れない方が健全だったりするのかなとか頭が過っていた。それも一重に男性が男性同士の価値観で背負ったマスキュリンにも感じる。それを内包化しつつも「嫁」「夫」が形成されるとするならば、それはなんだろうとも思った。
 1階に元々いた人も親が来て洗濯物を干したりしていたけども、そこまで入ってもらいたくないなと思ったり、それは親からしたら反抗期なのだけども、主体的な自律のためだったりするのかな、とか変な理由を考えていたりした。
 母親が家にきてこの前Amazonで注文してミスって実家に飛ばしてしまった土と鉢を持ってきていた。車に取りにいくついでに母親と近所の沖縄料理屋でそばを食べたりした。
 家に戻り洗濯物を入れ、トイレの水が流れる所で水耕栽培していたポトスをいくつかハサミで切って分けて、一部を鉢に入れて土でかぶせていた。ベランダの日射が強いためか定期的に「部屋に入れて」「外に出して」を繰り返している。
 少しして、日射が強くなくなったタイミングで外に出て、この前買えなかった指輪を古着屋まで自転車で買いに行こうとした。本の返却期限も超過していたため丁度よかった。借りた『エコラリアス』は部分として読めたものの、全体として読めていないためまた借りようと思った。
 指輪を買って、何軒か古着屋をまわってこの前みなみしまとお茶した所でクラフトビールを飲みながら会田誠の『性と芸術』をKindleで読む。すると向こう側のふた組のカップルの内のひと組がパソコンで彼女とバチェロレを飛ばしみしつつみていた。男が「長谷川さんの方が安定していて、今後の人生も安定するんじゃないかと思う。」と話していた。それを話して彼女に自分が安定している人、そういう人になろうとしている雰囲気をみせたいのかなとか変な憶測がよぎっていた。
 家に帰る途中にある銭湯に寄ろうとするも、従業員がコロナに感染したらしく閉まっていた。帰るかと思い、商店街を自転車で移動していたらロリータ服に身をまとった人を横切ったら舌打ちされた。舌打ちできる人に舌打ちしたかったのかもしれない。
 帰宅後、ネトフリで途中までみていたトランス女性のドキュメンタリーを夕飯の支度の合間にみていた。父親がトランス女性の人が区役所で行った講演動画で「私は男の服装を着させられているのが嫌だった。」と言っているのをみている。そのシーンがトッド・ヘインズの「アイム・ノット・ゼア」のワンシーンにみえた。そこは空白でなにもなくて、ジャミロクワイのCMみたいにもみえる。クリーンでホワイトな空間、要はホワイトキューブなのだがそこでみて感じる父親の表情がなんともいえない表情をしていた。