20220908

 この前にみた三宅唱監督の「きみの鳥はうたえる」は、2回目にみてようやくこれがポリアモリーの映画なんじゃないかと思えるシーンが最後にあったのを知る。あの追いかけて、また出会って、そこから別の3人の生活が音を立てているのがラストシーンに込められている気がした。あの間合いはなんだったのだろうと考えている。そう回想していたのは随分前のことで、仕事をしていた一週間か二週間も前のことだった。それからどんどん遠ざかって、有給休暇期間を過ごしており、内定手続きがバッティングしない様に次の会社の人事の人とやり取りをしている。どうしたものかと思いつつ、Amazonで注文した机を待っていた。その合間に大学院の教授からもらった本を開き、「興味深いことに、早口で話す人はゆっくりと話す人よりも有能であると見なされることが多い。しかし私は、話すスピードとは、育った文化から習得され、話し手の真意や欠点を隠すものであると考えている。」と書いてある一節を読んだ。どうやら、ペースの速い口調は聞き手の注意力を散漫にさせ、論拠の不備を見つける余裕を与えない、らしい。TwitterなどのSNSは素早く情報を入手できる画期的なメディアであると考える一方で、会話の速さが気になってしまい、ついていけない、疲れる。この「疲れ」について考えたいと思った。常に疲弊しながらも会話が続いている。