20220915

 ロナルド・D・レインは、ひとは「じぶんの行動が〈意味〉するところを他者に知らされることによって、つまり彼のそうした行動が他者に及ぼす〈効果〉によって、じぶんが何者であるかを教えられる」といったらしい。他者の他者としてのじぶんって、きついけどそゆもんだよなって思った。人は人の時間を使うし、使わされる気もするけど、この時間という体系ってなんだろう。鷲田清一はこれに対して「じぶんで、他者の世界のなかに妄想的に意味ある場所をつくり上げる」と、話している。梅棹忠夫の『行為と妄想』読み返そうかな。

 そこで、どこまでも私というエゴイズム、メンヘラみたいなものになるのだけど、その錯覚に陥ったとき、他者が遠のく。

 が、自他は相互補完的と鷲田は話を続ける。学校でいえば、生徒を規定しない教師はいないし、教師を規定しない生徒もいない。とすれば「先生はぼくらがいるところでもいないところでもいつも同じ態度だ」と感じさせる立派な先生によりも、遅刻をしたり、点数間違えをする先生に習うほうが幸福かもしれないという。それが、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるから、だという。批評もお節介で、野暮だけど、それが無菌室になったとき必要性あるのだろうか。批評はさておき、他者もそゆものなのだろうか。急にベンヤミンの暴力批判論を読みたくなってきた。