20220926
アガンベンの『スタンツェ』が一旦中断したまま、もの派について知りたいがために千葉成夫を読んで、具体ともの派とのつながりについて考えたりしていた。そのためか、また、アガンベンが扱ってきたメランコリーについて考えてみたいと思い、思弁的実在論の入門編の本を通勤時間に読んだりしていた。
フランスの哲学者、カンタン・メイヤスーについて書いている部分がある。この本ではメランコリストは「動物化の可能性」を待っているという。それは、スポーツを身につけたり、余暇を楽しめるのかという事らしい。日本の哲学者、國分功一郎が考える「暇を増やすために働く」という考え方と通じているのだが、メランコリーの条件とはそもそも何なのかも書いてあった。
「世界を言語的に把握すること、死の観念を持つこと、過去と未来の幅広い時間性を生きうること、事象の根拠を洞察する能力を持ちうること、メランコリーとはこういう条件が組み合わさらないと発症しない。」(『新しい哲学の教科書 現代実在論入門』岩内章太郎、講談社、p.85)
その上で、「人間的である」ことから逃れることで解決するという。が、人間的存在を生きる存在である以上、動物的に離脱するだけでは人間的可能性が残り続け、気になってしまうというのだ。
これは、ウィトゲンシュタインみたいな存在なのかもな、と考えたりしていた。けれども、そうやって物事を考えて生きるにはすぐに情報が手に入るこの今っぽい感覚は枯渇しているともいえるかもしれないと考えていた。メイヤスーはその中で、「不在の神」を唱え、「高さ」と「広さ」をメランコリストに与え、哲学に展望を与えた、と本書では書かれている。
けれども、この「高さ」と「広さ」という垂直と水平の思考の持ちようは可能なのだろうか。グレアム・ハーマンの章が次となっているが、どうなるのだろうと思っていた。思弁的実在論自体が哲学の流行りでもある気もさせるが、物象化をやって、一時期の流行りで終わってしまった?もの派とも関係するのだろうか。
この文章を書いた後、ドバイに住んでいる金持ちの人の動画YouTubeでみながらゴロゴロしていた。もしかしたら、金があって何もやる事がなくなった時のメランコリーもあるのかと思った。ともすると、金持ちに哲学の時間を共有するのがメイヤスーのやりたかった事だったりしないのか、とも考えたりしていた。