20220902
「何もする事がない」と言いたい気持ちがある。昨日、岸田くんと吉祥寺でご飯の後にシーシャを吸いに水タバコ屋に行ったら、絵描きの友達がたまたまいて、肩を叩いてくれた。インスタのストーリーにあげていたため、気づいたらしい。こう、お金を暇のために使ったりしてしまう事について國分功一郎の本を読んで考えたいなと思ったりするときもある。結局、あれから遅くに起きて、この前作ったガパオライスを食べて、知り合いのSEの人と2時間くらい電話をしたりしながら、今後について考えていた。夜に雨が止み、Prefab SproutのWhen Love Breaks Downを聴きながら自転車を漕いで、また小雨が霧みたいになったりしていた。岸田が「星とかそゆことしか詩に綴れないし、みんなそんなもんで、詩とか、いま思い出したのでもいいから、詠んでよ。」とシーシャを吸いながら言ってたのを思い起こしていた。
20220901
昨日、面接していた所が決まったため、人事の人に退職届の書き方だったり聞きながら退職届を書く。退職届って、自分でやるものだよなと思っていた。
昨日面接していた人と何故か仲良くなっていて、その人は爪が伸びるのが早く、一週間に一回のペースでネイルサロンに行っていると話していたり、広島カープのマエケンとジャニオタのふたつを使い分ける元営業の人だった。「池袋のジャニーズの店とか行かれるのですか?」と聞いたところ、そこには行かずに全て転売するらしい。ハイエースを乗りこなして疲れていて、事務職のOLを目指していると話していた。勉強会で分からなかった所とか色々聞こうと思った。
書類を人事に提出して、そこから同期の共有ラインに報告したら他部署の上司からお菓子をもらったりしながらも、フレックスを使って六本木の美術館に行った。代官山の職場とは縁がなくなるのも少し寂しくも感じられた。
20220830
昨晩、映画をみてから「映画の見方」が分からなくなった。単館の映画館で上映されたその映画は、シーンとシーンの間のセリフがない間合いのショットの使い方が、2人の関係性をどちらとも解釈できる描き方になっていた。その場合、シナリオみたいなものが機能しなくなってしまうのだけども、映像のショットが補填してくれたりしていた。映画の修士号を収めている人に「映画はどうみたらいいのでしょう?」とDMをしたら「美術もどうみたらいいのでしょう?」とDMが返ってきた。雑にいえば、現代美術において、ミニマリズム以降の美術について鑑賞できる鑑賞者が一部ではないのかと思ったりしている。そうした評価軸についての知識を蓄えなければならない、といった意味において「鑑賞にたえうる作品」というものが未だに分からない。
退勤後、恵比寿の書店でユリイカを買って、大岩雄典の論考をエスカレーターを降りた先、神殿を模した所にある木の椅子で読んだ。
20220829
昨日、