20220713
絲山秋子の『袋小路の男』を読み終えた。いくつかの短編で構成された短編集となっている。最後に載っていた小説では、姪と工場で働いているおじさんとのやり取りで構成されていた。姪は携帯電話をとにかくいじってしまう人で、書かれた当時は携帯電話であったけども、いまはスマホで何でもかんでも知れてしまうという危うさがあるなと思ったりしていた。その姪がおじさんと文通を通してやり取りするという話になっていた。その距離感とか時間みたいなものが読んでいく中で変化していくのが、読者に寄り添っている書き手のなせる技な気がした。
この読んでいる時間に寄り添って書き手が書くという行為について考えてみたいなと思ったりした。最後におじさんが手紙を書いて、それを紙飛行機に追って飛ばして、落ちた紙飛行機を拾ってポッケにしまうシーンが印象的だった。
早稲田文学に掲載された戯曲「光の中のアリス」も読んだ。スペースノットブランクが演劇をしているらしい。戯曲を読むという事を初めてして、唐突な文章とそれに巻き込まれる作用みたいなものを感じた。この巻き込まれる感覚は、唐突にやってくる、到来するみたいなものについて僕の文章と変わりなくも感じつつも、僕のは厄介なだけなのかもしれないなと思い、どうしたら厄介にならないのかなと思っていた。
映画「BPM ビート・パー・ミニット」もみた。エイズになってしまう若者とそれを取り巻く製薬会社。フランスの話ではあるがここまで過激にデモを行なっているのに衝撃を覚えた。製薬会社に乗り込んで「この事実を報道しろ。公開しろ。」と過激なまでに介入する。けれどもこの過激さは製薬会社の人たちにとっては厄介なだけになりつつある。
映画を見ながら途中で読み終えたブランショの『明かしえぬ共同体』もブランショが政治的な文章として書いた一節が差し込まれており、それまでは『文学空間』という文学批評の印象が拭えなかったと最後の解説に書いてある。ブランショは顔が見えない書き手でもある。彼もフランスであるがこの公共圏を「公共圏」として政治的参加を「政治的参加」として、圧倒的な生への実現を目指す側、市民運動みたいなものを僕はあまり参加できていないのかもしれないと思ったりしていた。
そのためか、無意識に巻き込まれてしまっている。あまり戦えていないのかもしれないが、そうともなれないと思い、ブランショみたいに遠くから見ている感覚にもなれない。どっちなんだろうと思ったりしながらブランショを映画を見つつ読み終えていた。