20220712

 たまたま、宗教性、共同性に興味をもち、デジタルで山本直樹の『ビリーバーズ』を購入して読み始めた。無人島で「安住の地」を求めて生活する宗教団体の男女。毎日、隠している事を話して共有し、共同生活を形成している。けれども不時着した船からきた観光客との出会いから変化していく。作者の山本直樹は『レッド』で60年代安保を描き、それまではエロ漫画で生計を立ててきた。そのためか、共同性とエロがないまぜになって描かれている。

 漫画を読んでいると議長と副議長、オペレーターが登場する。副議長は女性でオペレーターと付き合ってしまう。それに逆恨みした議長が「隠し事をしてはダメだ。信仰が足りない。」として、とんでもないことをしてしまう。

 何か理屈をつけるために「信仰」という全知全能である真理に手をつけて現実とは乖離したある種の「理想としての共同生活」を行なっている。この恋愛とは異なる他者と一緒に生活する事に関して高校の頃を思い出したりしていた。確か、高校の頃の教員で『レッド』を様々な生徒に薦める人がおり、マクルーハンの研究をしていて、この人は現実と虚像が一体となっているのではないかと思い恐怖心しかなかった。

 午後に昨日途中までみていたヴィム・ヴェンダースの「さすらい」を見終えた。最後の辺り、2人の男性が車で旅をするロードムービーなのだが、「お前は恋人を見つけられそうだけど、俺はそうでもないな。」と片方が言っていて相方と喧嘩して別れるのだけども、その後の少年とのやりとりだったりが贈与についてのやり取りなのではないのかとも思った。

 夜にブランショの『明かしえぬ共同体』を読んだ。ブランショバタイユの「内的体験」に触れ、宗教が持っている権威について考えたという。秘儀であるのだが、バタイユに巻き込まれた人々はそこでの体験を明らかにしていない。閉ざされた空間で行われる体験、コミュニケーションについて考えた時、オープンネスになんでも開示している『ビリーバース』における「信仰」に対して、何かおかしなことが起きていると解釈した。

 けれどもこの「おかしなこと」とは他者である読者の解釈なのであり、マインドコントロールされている当事者にとってはそうでもないのではないのか。このマインドコントロールについて、いま森美術館で開催されている展覧会に展示している作品が手がかりになるかもしれないなと思って、そのことについて考えながら寝た。