20230621

 「だが、情熱はある」を見ていた。若林を演じる俳優の話し方がねちゃねちゃしているのは、それを超えたコントにあり、ボケなのかツッコミなのか分からない等身大な演技にある。スタンドアップコメディの1人でとにかく話すという話法は、オードリーからあったりしないのだろうか。ウーマンラッシュアワーの村本の等身大のスケール感もそれに近い。以前、村本がアメリカでスタンドアップコメディを学ぶドキュメンタリーを見たとき、お笑いのボケ/ツッコミの抹消について考えていた。漫才は常にボケ/ツッコミを展開するが、それを見立てとして、「お笑い」という構造の中に落とし込まれた演技として、人々に見せたとき、それらはお笑いのボケ/ツッコミでも、何者でもなく、演者の等身大スケールのみとなる。そんな思い込みについて考えていた時期を思い出した。それを更にかわしたのがオズワルドだったりしないのだろうか。

 それと、美大を卒業してすぐの頃、自分が何を学んだのか、あの膨大な学費を消耗した上で培った資格は何を意味するのか、とにかくモラトリアムを抱えていたのを思い出した。若林が「パスタ」と言えないという話は、授業中寝ているのに起こされても「寝ていない」という話に通じている。それでも、ある肯定として「お笑い」があるのであれば、それはメタ的な批評で言えば、「ただ、続ければ良い」のである。オードリーが就活もせずに牛丼を食べて、水泳だけをこなす一日と南海キャンディーズのスターダムさが対照的となっている。山ちゃんはこれだけストイックな性格だったら、損するのは誰なのか。損でも得でもなく、「ただ、続ければ良い」のである。