20220415

 金曜日の夜、早めに定時で退勤をしてから、六本木に向かった。美術館とギャラリーを見て、実家に帰ろうとしていた。異動前の先輩が何故か呼ばれて面談をしており、退勤して、徒歩で恵比寿まで向かってる道すがら、ラインを開いたら、暇なんだけど!いま、なにしてる?の文字が。

 僕は、これから、ダミアン・ハーストっていう人の展示見にいきます!うしぶったぎったりする人です!と連絡して桜の絵の画像を載せたら、CMで見たことある!と言って連絡が終わった。

 新美術館に行く前に、オオタファインアーツのブブ・ド・ラ・マドレーヌの展示に行った。以前、同人誌を作ったとき、作家にインタビューしたことがあり、ブブさんとかにつなげようか、という話もあったけれど、それから同人誌を続ける体力がなくなり潰れてしまったこともある。

 90年代のアーティスト集団、ダムタイプのメンバーでもあったブブさん。僕が知っている限りでは、パフォーマンス、S/Nのパフォーマンスで最後に陰部から国旗をいくつか出してゆくシーンが印象に残っている。S/Nとは、S極とN極を意味しており、他にもシグナルであったり、意思疎通の話であったり、そこにはジェンダーや戦争、エイズといった様々な要素が入り込んでいる。元々、古橋悌二エイズであることを明らかにした作品でもある。

 ブブさんはセックス・ワーカーでもあり、仕事としてセックスをすることについても語っているシーンもあったりした。

 今回の作品、インスタレーションではアーツ前橋でのグループ展で展示された作品をまとめて展示した印象を受ける。アーツでのグループ展、表現の生態系は見にいけていないが、聞く所によれば高評価な意見を聞いたりする。

 ドローイング数点と針金で製作されたインスタレーションで構成された展示空間。最初にみたときは海辺のパレードといった印象を受けた。けれども解説を読む限り、この作品はアーツと続いており、<人魚の領土>というシリーズらしい。ここで、解説の一節を引用する。

 

「触れる/触れられる」という個人の身体に対する最初の越境は、親しみの表現やケアのためになされる場合もあれば、征服欲や攻撃欲から発生する場合もあります。一方、国という領土や、民族、ジェンダーセクシュアリティの境界をめぐって繰り返される侵害は、身近な生活の中で日々その度合いを増し続けています。人魚の住処であり領土でもある「水」は、地上で社会的な力を奪われた女性やマイノリティが生きる世界の隠喩でもあり得るのではないかと、ブブは考えるようになりました。

 

 在宅介護とセックスワークという二重のケアを行っているブブさんにとって人魚というイメージは社会の深層部分を常に覗き見しながらも、人魚自身も外面と内面を行ったり来たりしているという存在なのだろうか。ドローイングでは水の色合いが深かった。海の色合いは外側から見たらもう少し青々としているけれども、深い青色は海の奥深くに潜らないと確かめられないとも考えさせられた。

 ドローイングの向かい側にあるインスタレーションは深いイメージのドローイングに対して軽い。針金のような素材で鯨を思わせる存在を生み出しているからだろうか。旗もいくつか吊り下げられており、賑やかに見えた。こちらは内面を描いたドローイングに対して外面なのだろうかとも考えさせられる。内/外、海底/地上、といった対義語が一緒に展示されている。

 そして、人魚というイメージはブブさんが皮膚病になり、治療を受けても心理面で全く変化がなかったという所とも重ねられている。そこで、内は内、外は外という言葉がふとよぎる。結局、他者的なものは他者的なものとしてあり、自己的なものは自己的なものでもある。けれども、それらが行ったり来たり往還する、セックスしている時もあったりする。という話なのかなと思ったりしていた。