20220506
連休の間。1日のみが出勤だったりする。
堀江貴文が連休取れなかったら、労基に通報するというニュースをみかけた。僕も。この前、電話したらそっけない役所の対応でもういいかとなった。
仕事の合間を縫って、今後のことを考えても休日の間なのか捗らない。それにしても、退勤したら気分転換しようと決め、退勤後、恵比寿から日比谷へ。
三菱一号館美術館の上野リチ展をみてきた。ひさびさに三菱一号館に訪れ、夜の館はホーンテッドマンションにみえる。アトラクションの様なしつらえと言ったら烏滸がましいが、昔の洋館はこの国の耐久年数を遥かに超えるためか、どこか浮世離れしている。
それはともかく、上野リチはウィーン工房出身のためか、デ・ステイルを意識させる構成主義の作風。けれど、後半に従い動植物などのアール・ヌーヴォー調が取り入れられ和洋折衷かつ洋裁向きの絵柄が上野リチ独自のトーンを形成していた。これは、建築家であるパートナーとの協働によって成立し得たのではないのか。建築と洋裁、全く異なるメディアであるものの、リチが内装を手がけた日生劇場のレストランはメディアを往還したリチならではのしつらえであった。面白い。そして、一貫してファンタジーを唱える。
帰りに赤坂でバリキャリをしていた人がデートの後に訪れる、と教えてもらった麻布のバーに寄り道した。ここも、寿司屋の様なしつらえであるにも関わらず、バーをしている。
20220505
外に出るかと思い、島田萌の表紙が印象的な伏見瞬のスピッツ論を買いに新宿まで。
そこから、昨日、忘れて駐車していた自転車を取りに行く。途中、カフェでこの前借りた吉田健一の時間をぽつりぽつりと読んで、神奈川県立文学館で開催されている個展に行きたいなと思う。
それはともかく、たまたま、映画学校時代の家庭教師をやってる人が新居に着たいとのこと。飯の準備のために肉のハナマサで買い物。
肉料理を作るものの、どうやら彼はダイエットしてるらしく、一緒にネトフリのドラマを見た。30歳までに童貞だと魔法使いになるのドラマをチラッとみると、hanbaraさん、どっちでもいける人だから、こゆのみれるんだよね、と言われる。
どうやらその人は結婚式で一緒になった北海道の人がきになっており、今度、友達が紹介してくれるらしい。
また、くるね、とは言っていた。
20220504
惑星ザムザをみて、ケーキを食べて、あるミーティングに参加した。
あるミーティングで久々におじさん達と飲んだ。案外、いじられても傷つかないのかもしれない。だけど、ストップも必要だったりするのかな。そんな感じで、ついつい4軒ほどはしごした。
その前に、ザムザの前に。いとまの方法という杉並学園の展示もみていた。そのためか、やはり、廃墟を使った展示は建物の面白さに負けないようにサイトスペシフィックな方法に寄りがちな気がした。それはそれでいいのだろうか。消費の速度。何かを鑑賞するという態度。全てがSNSで泡沫的に。
そんな感覚も麻痺している。常に麻痺した感覚はどこに行くのか判然としないまま、鑑賞、という物事が置き去りにされている。そんな気にさせるのは、地域の美術が地域に根ざしたからなのだろうか。と、ふと、考えてみたりしている。
どこまで、鑑賞した、と言えるのだろうか。いや、スマホを手にかざしたら鑑賞した、といえてしまう不確かさに身を委ねる事もしにくい、歯切りが悪いけれど、どうしたらいいのだろう。
20220503
展示をみて、保育園、小学生と続いた友達とご飯した。
知り合いの展示で、気晴らしとスポーツという。タイトルがプロパガンダみたいだね、と展示していた岡本くんに話した。もう少し、明るくしたつもりだったんだけどねっていってた。
少し、太陽が強い。この前、買ったレイバンのサングラスで歩く。
実家に戻り、いくつか品物をもらう。そこから、予約した店へ。どかっとバックを置いてしまい、友達からは変わったかと思った、と言われる。その人はクリニックで働いていて、妹がいる。他の2人はひとりっ子で何かと自由にみえた。
彼が言っていた、僕がこの前、渋谷で会っていた人と僕との付き合いを心配する様子が気になっていた。彼にとってはあまり、いじられている感じがよく見えなかったらしい。僕はあんま、気にしてないよ、と言った。その人と彼と今日飲んでいたメンツでいつか家の近くで飲む予定を立てた。
20220502
市役所に用事があり、市役所の待合室で数時間待っている間に気づいたことがあった。番号カードをみたら「522」だった。
夕方、銭湯に行き、その後、ホン・サンスの「自由が丘で」をみた。吉田健一の『時間』を加瀬亮が読んでいる所が気になった。いま、「夜の浜辺でひとり」をみている。
ついさっきまで、シーシャで画家の人と話していた。そこで、ユリイカのリヒター特集の話になり、知り合いの女性の文章を書いている人が批評を寄せていた。あの人がやろうとしているのは男性言語の読み替えでもあるのかと思い、何故か好感を持ってしまう。なんでだろう。
そもそも、コンテンポラリー・アートは男性言語と相性がいいというのをアートシンスでも書かれている所があった気がする。それをどう読み替える。そもそも翻訳もその人が読むという行為も翻訳の主体の話であり、どこからどこまでが読んだのかも分からない。
20220501
今日は雨。けれども友人と鎌倉に行く約束をしていた。その人がみたい企画展があるという。松本竣介の展示で、その人が鎌倉初だったため、小町通りを避けながら歩く道を教えたりした。
松本竣介の展示は風景画の作品がなくて友人は不満な感じだった。帰りに七里ヶ浜のカレー屋に行ったけれどランチが品切れだった。そのため、隣のお刺身が食べられる店に行って、旬の刺身と日本酒を堪能した。海が眺望できる所で眺めがよかった。
帰りがけ、その人と彼氏の話とかして途中、電車の中で寝て帰った。
カフェによってこの前、借りた映画でも見ようと思ったけれど、設備が整っていなかったためベイトソンの『精神と自然』を読んだ。全ての世界は主観でできているとベイトソンは書いており、そうなのかと思った。
隣の座席で会話している人がいる、
今日も綺麗な服ですね
あ、あ、あ、あ、あ、の、の、の、好きで買ってます。
僕は最近、黒い服を好みで着ています。
聞こえてしまったから書いている。どもりが気になった。けれどもどもりの人は綺麗な人に見えた。
奥の席では、髪をピンクにした女性が結婚、出産といった教科書通りの生き方をするのは疑問だと男に訴えている。
ベイトソンの本を読んでもあまり頭に入らなかった。
家のあまりものとスーパーで購入した具材でポトフを作る。途中、銭湯に行き、そこからコンビニでビールを購入して飲みながら歩いた。GWにどこかへ出かけるのもいいけれども、結局、身の回りでなんとかなっているのではないのかと思った。このなんとかなっている感覚、甘えているし、なんで、だろう。甘えている自分に気づかないのも鬱陶しいし、生きづらい。
自分で勝手に悩んで、迷惑かけてばっかりだからダメなんだなと思った。そんなとき、腐れ縁と俺との経験を水戸に行った友達に話した時、お前ら、すげえ、経験してんだなー、といっていた言葉が耳に入る。なんともないけど、なんか動いたり、前だか後ろだか知らないけれども着実に生きてる、その実感がすげえ、という端的な言葉に満ち溢れていた気がした。
その話を昨晩、実家で母親に話したらワインを飲みながら笑っていた。
20220430
高校の頃の友達が葉山の一色海岸でぼーっとしているインスタグラムのストーリーを挙げていた。港区出身で議員の娘らしい。港区の人は晴れた日にみんな海岸行くのかと思った。港だけに。この前、久々にインスタで電話することになり、共にマッチングアプリ難しいっすよねという話で盛り上がった記憶がある。
なにかと暑い。
2時まで友人と話したのに6時に起きて、洗濯と炊飯している。
15時の歯医者まで時間があったため、町田の国際版画美術館で版画運動についての企画展をみる。最初の展示が少し眠かったため、間にある休憩スペースでひと眠りした。監視員が座りそうな椅子がソーシャルディスタンスしながら3点配置されている。大枠の窓から新緑が太陽光を浴びて反射する光が壁に照らし出されている。それを浴びることしかできないスペースとなっており、飲食ももちろん禁止であったため、寝るための特等席かと思った。
後半の展示は集中してみれた。後半は教育運動と版画の関わりを興味深く見ることができた。この前、水没した地元の美術館も小学生たちによって版画にされていた。あれもこれも、今はもうない。バブルの遺産。このもうない、という感覚が残っている。いや、留められているという所が版画のリアリズムと接続している様に感じた。でも、版画である必要はどこまであるのか疑問も残る。
帰りに町田駅の洋食屋でカレーを食べる。隣の空間で男性アイドルが踊っており、等間隔に女性が撮影している。渋谷駅地下の男性アイドルを必死に撮影する女性陣を思わせた。
歯医者に少し早めに到着。奥歯を詰め合わせした。磨き方を教えてくれるも、見えない所まで磨かなければいけないという高度な技術を求められた。