20221230

 遅くに起きて、札幌のジュンク堂現代思想のロスジェネ特集に書かれた藤田直哉の論稿を立ち読みした。山上徹也や加藤智大といった犯罪者と自分の年齢を重ね、彼らが生きた時代について書かれていた。山上徹也のツイートも引用されており、批評家の杉田俊介の弱者男性論も読んでいたらしく、その論考に反論したツイートもあった。先週辺り、Oさんがインスタのストーリーでおたくと呼ばれる人々の男性性について、連帯して社会運動をした人はいないのか、という問いを流しており、それに対して私はおたくはそもそも、外に出ないため運動はしないのではないのか、とDMした。けれども、おたくと呼ばれるものが資本主義と手を結び、お金があり、勝ち組と呼ばれる層しか発言権を得られてしまう所はなぜだろう、と思っていた。藤田直哉はそうした点について社会学者の古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』を引き合いに出し、社会保障制度の制度的なものがなくても若者は何かカルチャーを推進する、といった提示の上で社会制度の話を流してしまう効力があったのではないのかと書いている。が、テン年代の政治の季節とポリティカルコネクトレスが進む中、おたくと称される人々は影を潜め、ネトウヨと男性性の話に転用する。そして、低賃金、負け組と呼ばれてしまうヘテロ男性は存在する事がネット社会の中での叩きの的となってゆく。藤田直哉はそこで神の話をしており、心配になる。少し読んで暗くなりつつも、札幌のOさん、Fさんとでサイゼリヤで6時間話していた。Oさんはアイドルの絵を描いていたけれど、そうした社会の中で封印して描けなくなったと話していた。が、他方で男性性は存在し、それに反省しながら作品を表現している。それで、最近はカーレースに関心があるらしく、その試合には白人中心主義の問題やガスを用いるため、環境問題を気にした発言が散見されるという。レースの会長も黒人になり、ポリコレ的発言は辞めようと公言したという。あと、今年みた展覧会の話とか、映画の話、動くメシの話になった。結局、Fさんが創作には体力と根性といい、話が終わる。

20221229

 朝に起きて、タモリ徹子の部屋黒柳徹子から「来年はどんな年になりますかね。」と言う質問に対して「新しい戦前」と発言している動画をTverで見た。タモリについてはK.K.という現代アーティストによる<ワラッテイイトモ、>というゼロ年代の作品を思い出す。これはある意味でタモリ批評になっており、全編You Tubeでみれる。90年代にとって80年代は潤いがあったのかもしれない。それはともかく、ビッキをみて抽象彫刻が気になりはじめ、アルテピッツァ美唄に向かうことにした。あまり雪は降っていないだろう、と思って行ったものの豪雪だった。駅の近く、ふつうにメチャ降ってる中で到着してしまう。駅チカの喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、元から人通りの少ない街だったという記事があったため読んだ。炭鉱の街だったらしく、向かう施設はその近くの小学校を改装したらしい。美唄出身の彫刻家、安田侃の個人美術館となっている。車で施設まで向かった。主に屋外彫刻と学校の校舎になっており、体育館も展示施設となっている。背を低くして小学校低学年の身長に合わせ、インスタにあげる写真を撮影した。販売していた安田侃についての本を読んで、大学院から藝大に行き、イタリア留学をしているのを知る。大学は北海道の教育大学出身であることを知らなかった。教室での展示をみた後に体育館の展示をみて、大地の芸術祭でのボルタンスキーと比べてみてしまう。やはり、彫刻よりもボルタンスキーの方が空間をもろ使っており、ひとつのメディウムの限界を知ってしまう。そういう意味では大地の芸術祭は地域系アートの先駆けなのではないのか。美唄は92年開館でまだ芸術祭の1回目(2000年)の開催前夜。とすると札幌国際芸術祭はどういった位置づけなのか気になる。それはともかく、炭鉱と美術の関係でいうと、川俣正がコルマイン・プロジェクトというのを目黒区美術館で昔開催された’文化’資源としての<炭鉱>展で行っており、あれからどうなったのだろう。國盛麻衣佳さんによる『炭鉱と美術』という本もあり、美唄について書かれているがそれも読みたい。ともに戦後について考える材料になるかもしれない、新しい戦前の前に。そんな事を考えながら山を登り、施設の喫茶店でお茶をしてバスを外で待った。吹雪で凍死しそうになりながらも、一緒に待ってた人がノリで来た人らしく、靴がニューバランスで元気だと思う。バスと列車を使って札幌まで戻り、高校の頃の先輩、Mさんに会う。介護施設で働いており、仕事の相談みたいな感じになった。

20221228

 北海道立近代美術館にホテルから向かった。砂澤ビッキ展がやっている。ビッキの展覧会をみたのは神奈川県立近代美術館で行われていた個展以来となっており、それと異なる展示に期待していた。展示された作品は個人収蔵のものが多く、初期の作品についてあまり知らない事について考えていた。何を知らないのかというと、ビッキが抽象の木彫を彫り始める手前の作品はシュルレアリスムと関係するものが多いらしく、そこからどう抽象にいくのかよく分からなかったからだ。展示をみる限り、シュルレアリスムを思わせるのは主にドローイングとなっており、海外に行ってからだった。もしかしたら私が勘違いをしているのかもしれないと思い、それよりもビッキの初期作品が民芸品となっていた方が面白かった。貴重品を入れる箱であったり、鏡であったりを作っており、何故これを作ってしまうのか気になっていた。ここで、ウポポイで展示されていた資料館を運営するアイヌの人たちであったり、伝統芸能の継承に視点が向かっていた点であったりを思い浮かべていた。ビッキ自身はとにかくなんでも作ってしまう人らしく、後半ではジャズにハマり、ジャズシンガーの人形の木彫りを彫ったり、アイヌの人々を彫ったりしていた。それと、家具と彫刻を分け隔てなく作っており、カミさんの家具?みたいなタイトルの作品も作っていた。けれども、どうしても抽象に向かう方向が気になる。民芸作家との交流もあったらしいがそこからか?とも考えたりしていた。謎が膨らむ。

 そこから、文学館で行われていた吉本隆明展に向かった。高校の頃の校長が吉本隆明の通訳をしていた言語学者らしく、私との面談のときに机からバサッと落とした書類に「鮎川信夫」と書かれていたのも記憶に残っていた。主に、初期ノートについての展示が中心となっており、文字が電報の様にスモールスケールとなっていた。経歴についてあまりよく知らなかったため、新鮮だった。大学を卒業してから工場を転々とし、研究生(いまでいう院生)となり、色彩学の研究を行い、東洋インキに就職。それから課長クラス?にまで上り詰めるが、労働組合運動を起こすも敗訴。そこから32歳で無職となり、パチンコの球を販売したり、翻訳をしたりしつつも同人誌の編集で出会った男の妻とよりを持って結婚する。吉本はそれについて「奇妙な三角関係」と記述していたという。その院生と無職のお金のない間に書き集めたのが初期ノートに収められているという。下町に生まれてサラリーマンとして働き、その上でマルクスについて書き、知識人として活躍するのは頷けた。展示ではパチンコの広告?にも寄稿していたのが展示されており、どんな所にも書ける人なのではないのかと考えていた。

 帰りにスープカレーを食べてホテルに戻り、Googleでミーティング。夜に長野にいるTさんに連絡して隆明展に行ってきたと話したら、吉本が提言していた反核異論の話しとなり、吉本は技術の進歩に前向きであったのではないのか、という話となる。戦後とは何か。

20221227

 列車に乗って、ウポポイまで行ってきた。博物館がある白老の駅の前では木材屋が木を運搬している。この木はどこに行くのか少し気になっていた。たしか、中高の向かいの山の土をトラックで土砂を埋め立てるために運んでいたり、杉の栽培が行われていたからで、そういうのも関心の元になっているのかもしれない。 施設について、資料館の部屋で資料をみる。1973年に行われた「全国アイヌを語る会」の議長を砂澤ビッキがやっていたり、「伝統文化を活かし、広げる」のコーナーで藤戸竹喜の熊の彫刻があったりした。絵画よりも彫刻に向かうのは何故だろう。そして、見過ごしているだけで身近に存在する伝統文化としてのアイヌは、継承されるものなのか、実は消費空間の元で、表象的な認識に限定した思考を膨らませているだけではないのか、と考えてしまう。 特に和人との接触によって行われた差別的な海の交易禁止であったり、学校空間でのいじめなどが印象に残る。最近になって博物館の館長をしている父親が機関紙でアイヌの人をいじめていた話を書いたらしい、そういうのもあってか、現実味をもってみていた。 それでも、博物館からみえる湖は氷が張っていて、澄み切っている。そして、とても寒い。外に出て、民家の中でアイヌの話を聞いたり、演奏をみたりしていた。そこから少し散歩をして、肉屋でハンバーグと赤ワインを食事して、寝ながら列車でホテルまで帰る。

20221226

 羽田から新千歳へ。ホテルへ向かう道中、日記の更新で少し気が重くなったりしていた。ラーメン屋で味噌ラーメンを食べつつ、Eさんが欲しいと話していたレトルトラーメンの土産をEさんに聞いたりしていた。

 どこでもみれるけど映画をみた。「そばかす」という映画で、三浦透子が演じるそばかすさんという名前の女性が主人公となっている。その人がアセクシャル?らしく、周りが次々と結婚していく中で、親が心配して服を買いに行く口実をつけ、見合いをさせられたりする。祖母は何回か離婚をしており、そばかすさんの妹が旦那さんの不満を話すと、別れた方がと話している。バツイチ同士の両親を持っている私も何故だか、このやり取りを共感したりしていた。

 玉田真也が監督という事もあり、家族でのやり取りが面白い。妹の旦那さんが家族の焼肉会に参加したときに妹が旦那さんの浮気を疑い、揉める。そのとき、三宅弘城演じる父親が立ち上がり、怒り始めるかと思いきや、焼き肉を取る。それをみた祖母が「焼肉か。」という。それでも揉め事が激化して父親が泣く。それで祖母が「ついに肉がつまったか。」と合いの手を入れる。この合いの手は、肉が詰まった訳でもないのに、そう見えてしまうという誤配に面白さがあったりするし、その手前は事実だけども、「食卓で怒りはじめるよくある父親像」のあてつけみたいにみえるが、まったく異なっていた所に落胆している。このやり取りの不一致みたいなものは何か気になった。

 飛行機に乗りながらこの前買った三木那由他さんの本を読んで、すだちかレモンかの章を思い起こしたりした。三木さんの友人が紅茶にレモンの汁を垂らして欲しいと三木さんに話し、三木さんは間違えてすだちを入れてしまい、それに対し、友人が知ってて御礼をしたというエピソード。これは、言葉の誤配みたいなものが関係しているという。それが意味の占有として暴力的に機能してしまう場面もあればユーモアに昇華する場面があり、それについて詳しくは別の日記で書きたいと思ったりしていた。

20221222

 この日にsilentの最終回を見た記憶があり、いま書いている。9話で主人公の姉から生まれた子供が「優生(ゆうき)」という名前で、相模原の事件をフラッシュバックさせてしまう雰囲気もあった。それに対し、反応したnoteの記事も読んだ。

note.com

 確かに、マイクロアグレッションになっている部分も読み取れる。が、言葉の誤読であったり、フィクションという性質などについて考えを膨らませてみたときに一概に言えない部分も備わっている。

 この相模原の事件もそうだし、障害者についての事件については北海道の障害者支援施設で10人の知的障害を抱えた人が外で長時間放置された事件もある。健常者と障害者の溝は確かにあり、その溝をドラマというフレームに留めたときに限界があるのだろうか。

www3.nhk.or.jp

 こちらは精神障害という点において、身体障害とは程度の差はあるものの、「ケア」という視点に立ったときに、生ぬるいものではないのではないのかと思う。実際に高校で寮生活をしていたときにそうした人と生活を共にしていた。そのとき、どこまで生活を共にする事ができるのか考えてしまった。

 創作について話を戻そう。他方で、三宅唱の作品は映画の構成やショットなどからこれまで作られた様々な映画を想起させるものとなっていた。毎回、題材と形式のどちらに留めるのかという所で頭を抱えてしまう。

20221225

 案の定、ワインによる頭痛が来ることは分かっていた。そう、そのためにサイゼリアのアルコールを含んだ赤ワインをデカンダで飲んでいたのであり、その前にAさんが飲んでいたに日本酒も含んでいたため、それなりの倦怠感が朝にあった。親と靴を買いにいったときにも無理して元気を出して会話を楽しんでいたりした。

 三宿のギャラリーで行われていた倉田悟さんの展示をみて、台湾料理屋で台湾麺を食べた後、自由が丘駅まで歩いていた。夕飯もそこまで喉に通らなかったため、部屋に篭って今年の「みうらじゅん賞」を配信でみていた。

 ピカソも受賞していたため、国立西洋美術館学芸員が御礼を書いたりしていた。おさるのジョージに出ている黄色い帽子のおじさんも受賞していた。みうらじゅんによれば全身黄色い格好の怪しいおじさんだが、からかい上手のお猿の尻拭いをして、とても優しい人らしい。つまるところ、黄色に見えるが黄金色の菩薩であるという。

 そこで、何故か私はメイプル超合金カズレーサーがワイドショーで「あまり服や靴を買わない人が多い現代人」についてのニュースに触れ、僕も靴をあまり買わない、と話していたのを思い出した。それはそうだ、カズレーサーの靴は常に赤い。