20221222

 この日にsilentの最終回を見た記憶があり、いま書いている。9話で主人公の姉から生まれた子供が「優生(ゆうき)」という名前で、相模原の事件をフラッシュバックさせてしまう雰囲気もあった。それに対し、反応したnoteの記事も読んだ。

note.com

 確かに、マイクロアグレッションになっている部分も読み取れる。が、言葉の誤読であったり、フィクションという性質などについて考えを膨らませてみたときに一概に言えない部分も備わっている。

 この相模原の事件もそうだし、障害者についての事件については北海道の障害者支援施設で10人の知的障害を抱えた人が外で長時間放置された事件もある。健常者と障害者の溝は確かにあり、その溝をドラマというフレームに留めたときに限界があるのだろうか。

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 こちらは精神障害という点において、身体障害とは程度の差はあるものの、「ケア」という視点に立ったときに、生ぬるいものではないのではないのかと思う。実際に高校で寮生活をしていたときにそうした人と生活を共にしていた。そのとき、どこまで生活を共にする事ができるのか考えてしまった。

 創作について話を戻そう。他方で、三宅唱の作品は映画の構成やショットなどからこれまで作られた様々な映画を想起させるものとなっていた。毎回、題材と形式のどちらに留めるのかという所で頭を抱えてしまう。