20221228

 北海道立近代美術館にホテルから向かった。砂澤ビッキ展がやっている。ビッキの展覧会をみたのは神奈川県立近代美術館で行われていた個展以来となっており、それと異なる展示に期待していた。展示された作品は個人収蔵のものが多く、初期の作品についてあまり知らない事について考えていた。何を知らないのかというと、ビッキが抽象の木彫を彫り始める手前の作品はシュルレアリスムと関係するものが多いらしく、そこからどう抽象にいくのかよく分からなかったからだ。展示をみる限り、シュルレアリスムを思わせるのは主にドローイングとなっており、海外に行ってからだった。もしかしたら私が勘違いをしているのかもしれないと思い、それよりもビッキの初期作品が民芸品となっていた方が面白かった。貴重品を入れる箱であったり、鏡であったりを作っており、何故これを作ってしまうのか気になっていた。ここで、ウポポイで展示されていた資料館を運営するアイヌの人たちであったり、伝統芸能の継承に視点が向かっていた点であったりを思い浮かべていた。ビッキ自身はとにかくなんでも作ってしまう人らしく、後半ではジャズにハマり、ジャズシンガーの人形の木彫りを彫ったり、アイヌの人々を彫ったりしていた。それと、家具と彫刻を分け隔てなく作っており、カミさんの家具?みたいなタイトルの作品も作っていた。けれども、どうしても抽象に向かう方向が気になる。民芸作家との交流もあったらしいがそこからか?とも考えたりしていた。謎が膨らむ。

 そこから、文学館で行われていた吉本隆明展に向かった。高校の頃の校長が吉本隆明の通訳をしていた言語学者らしく、私との面談のときに机からバサッと落とした書類に「鮎川信夫」と書かれていたのも記憶に残っていた。主に、初期ノートについての展示が中心となっており、文字が電報の様にスモールスケールとなっていた。経歴についてあまりよく知らなかったため、新鮮だった。大学を卒業してから工場を転々とし、研究生(いまでいう院生)となり、色彩学の研究を行い、東洋インキに就職。それから課長クラス?にまで上り詰めるが、労働組合運動を起こすも敗訴。そこから32歳で無職となり、パチンコの球を販売したり、翻訳をしたりしつつも同人誌の編集で出会った男の妻とよりを持って結婚する。吉本はそれについて「奇妙な三角関係」と記述していたという。その院生と無職のお金のない間に書き集めたのが初期ノートに収められているという。下町に生まれてサラリーマンとして働き、その上でマルクスについて書き、知識人として活躍するのは頷けた。展示ではパチンコの広告?にも寄稿していたのが展示されており、どんな所にも書ける人なのではないのかと考えていた。

 帰りにスープカレーを食べてホテルに戻り、Googleでミーティング。夜に長野にいるTさんに連絡して隆明展に行ってきたと話したら、吉本が提言していた反核異論の話しとなり、吉本は技術の進歩に前向きであったのではないのか、という話となる。戦後とは何か。