地震が起きた。友人と一緒に電話で話しているときに、地震だとなって。
目の前のラックとテレビが揺れているのに気がついた。
向こう側にいる友人は、ガタゴトいっていた。
大丈夫ですか?と尋ねるも、鉄筋コンクリートにも関わらず木造建築と話している。
そういえば、実家だとテレビをすぐに付けたけれど。これは、外部の声を早めに聞く手段として使っていたのではないのかと憶測してしまう。
外側の人はどう思っているのか、心配しているのか。
そうこうするうちに、友人が実家から電話がかかってきたと話す。
電話が切られ、別の人からラインで電車で閉じ込められているとメッセージが来る。
電車も大変そうだ。閉じ込められていたらしいがのんびり進み始めたという。
のんびりいいですねと連絡してしまったが、そんな緊迫なときに伝える言葉でもない。
どこか鈍感なんだと思っていたりするときがある。
あの、大震災のときも高校生の頃だった。
そういえば、グループで研究内容をどうまとめるのか話し合っている間、この会議早く終わらないのかと待ちあぐねていたときに揺れて、これで会議が終わると思ってしまう自分がいた。不謹慎である。これをいうのは不謹慎だと震災の後に口を閉ざしていた。
けれども、こうなって欲しい、こうあっていればよかったと判断する思考はどこか片隅にある様な気もしている。これは、願いに近い感覚で僕は考えている。
事実、これから地震がまた起きて欲しいと思っていない。もしこれから余震が来るのであれば寝られない。
こういった感覚で余震で備えなければいけない。
家族からもラインが来た。大丈夫ですーとだけ伝えている。
いや、これから大丈夫なのだろうか。もし、余震が来たら、関東大震災がきたら何があるのか分からないと思いながらも明日があるのか分からないまま、明日を待っている。そんな中、今日もこの文章とやらを書いている。
本当であれば、地震報道や避難場所を提供することが安心材料になるのかもしれないし、そういった言葉、情報が必要であり、それ以外は不謹慎で悠長なこといっているとも思われるかもしれない。
それでも文章を書いて、考えあぐねている自分がいる。この後、震災が起こったら避難する事が不慣れですぐに被災してもおかしくないよなと考えながら文章を書く自分についても考えているけれど。「まあ、こういうものか」と開き直るしかなかった。