20211024

久々の実家で母親と父親の間に挟まれている。父親は益々、ワガママになっており、頑固オヤジとは名ばかりな振る舞いをしているため、毎回聞いているフリを私はしてしまう。このフリは、一定の距離感を保つためにも必要なのではないのかと考えていたりする。どうやら、曽祖父も頑固であるあまり、周りの人が次々と離れていったという話を母親から聞いた。少し、自分もそうなってしまうのではないのかと心配した。

 

午前中に期日前投票を済ませる。実は未だに住民票を変更していない。そのため近くの大学図書館にも行けず終いだ。どこかのタイミングをみては変更しなければいけない。会社の人事にも常々言われている話なのであるが行く機会を逃してしまう。これも年を経れば「頑固者」となってしまうのだろうか。柔軟に対応できるように今からでもしなければ「頑固」となってしまうため気をつけよう。そう思っている自分がいた。

 

舞台の研究者、北村紗衣の『批評の教室』とフーコーの『フーコー文学講義』を購入した。批評の本は、新書であるためかスルスルと読めてしまい、一日で読み終わりそうなスピードで読んでしまう。特に「作者は死んでも歴史的背景は殺さないように」というくだりは納得できた。作品が持っている世界観に引っ張られ過ぎてしまうのも批評にはなり得ないが、どう形成されたのか確かめるという部分が必要なのではないのかと考えさせられる。

昨日みたホーンの作品も美術館の周りの景色との相性がいいためか、多くの鑑賞者が「映え」る写真を撮っていた。この世界観を求めていたという話もどこかで聞こえていたが、ホーンの作品自体はどこに配置されても可能であるという特質を担保しているのではないのかと考えてしまう。ミニマリズムの可動性について知っていれば、サイトスペシフィックな作品とどう異なるのか分かるだろう。私はホーンの作品についてそう考えてしまった。

舞台の話について書かれているにも関わらず、美術作品についても参照できる内容であると考えながら新書を読む機会を味わっていた。