20211023
山をのぼり、母親とロニ・ホーンの展覧会を見に行った。展覧会はふたつの会場に分かれており、冒頭からホーンによる写真がいくつもの案内ボードの様に飾られ鑑賞者を誘導する。アメリカを拠点としながらアイルランドの風景を撮影し続けたという写真からは、硬直した表情の人物や氷山など、どれも動きのある写真というよりも停止したように収められている。そして、はじめに展示されたフクロウの剥製もそういった時間を感じさせた。そうか、これが定点観測というやつなのかと考えたりした。ダン・グラハムの家を撮影した写真を思い返したりしながら、石鹸の様なガラス彫刻が配置された会場についた。
ガラスの中に水が水面張力していると思うも、反射する部分もガラスで作られている。それらの作品はどれも詩がつけられ、どういった意味があるのか気になった。活動の初期にドナルド・ジャッドなどのミニマリズムに影響を受けていたという事を後で知り、フォーマルな造形からそういった意識を感じる。それにしても重い素材を扱わずにガラスで造形する方法からは、ミニマリズムよりも軽やかな作品にみえた。
展覧会で特に気になったのは、規定する言葉とそれを意味するであろう写真の関係である。朗読パフォーマンス、「水と言う」(2021)を収めた映像を見た後に写真群、「静かな水(テムズ川、例として)」(1999)をみる空間では、後から朗読していた内容が写真に掲載されていた詩である事が分かった。ホーンの朗読する声を聞きながら、写真に収められたテムズ川を眺める。スマホで読める訳文を見ながら写真をみる経験を通して、はじめは文字と写真を通して「砂漠の様な川」、「身を投げうる川」と別々の川を連想させてしまったが何度も見るうちに同じ川の多面性に気付かされる。朗読を聴いて別の川を連想していたがそれも同じ川であるという経験は、聴覚と視覚を通して体験する感覚に近く、とても身体的な作品であると思った。
そして、その後に展示された文学の一節を描き、それを切り取り、スクラップしたドローイングは、文字が破裂し続け、分裂した言葉にもみれた。ひとつの言葉がまた別の造形として編まれる(実際に線のように切り刻まれ、つなぎ合わされている)行為は、昨日読んだヴァレリーとのつながりを連想させたりした。
展示をみた後、さらに山をのぼり、墓参りをした。墓参りといっても特殊な宗派であるため、通常の石碑と異なっている。石碑はなく、集まって話を聞くという事をした。ちなみに、神奈川の人に多い宗派であり、大山ねずの命神示という宗派に所属している。
俺は宮島達男じゃない。そう思った。