20220419

 ある夢をみた。

 その夢はカウンターで黒い服を着たどこかで見覚えのある美術批評、キュレーションをした人がいて、僕に話かけてくる。
 hanbara君は美術に関心あるの、どんなのに関心あるの、と僕に聞いてくる。
 けれども、マスターや隣に座っている人が、この人はハラスメントしたから会話したらいいことないよ、と僕に話してきて、その返しに僕は、もう、承知しております、と返して夢から覚めた。
 午前3時スマホをみて、また寝た。
 
 あれから、友人に、お前と話すと不幸になる、と言われ。そうか、不幸なんだなと不幸な場面を色々、思い返したりしていた。そのとき、母親との関係が不幸像をまやかしとして作り出しているのかもしれない。
 母親は僕が産まれた後、男が腹の中にいる事を考えたとき、なんで私のお腹の中に男がいるのかさっぱり分からなかったと僕に話す場面が何度かあった。
 それは、母親が強姦を受けたり、そういった男が原因で私の人生が変わったという憎しみがその言葉に込められていた。そのため、そうか、おれ、腹の中にいたときからあまりよくなかったのかな、と思ったり最近していた。

 僕が大学を卒業して、就職に就かずふらふらしていたとき、元カノが就職か何かしら就かなかったら別れるから、と脅されながらも何か事を起こしては失敗して、その悩みを母親に相談すると、男は強くなけば、強い男しか生き残れない、と言い始め、あるセミナーに連れていかれたことがあった。
 そこは、女性のコーチングをする人がいて、男性が弱みを話すという会だった気もする。僕は雑談する時間のとき、ホストのオーナーと会話した。そのとき、確か、暗い女性がまわりにいる、という話をした記憶がある。そのオーナーは僕もキャバクラの女性に悩みを相談されたけど、お酒のお金とか全部、僕が持ったりしたよ、という話だった気がする。そのコーナーが終わった後、コーチングする人が𠮟責して、最後の一日、それぞれが目標を言って、終わる。僕は確か、家族を大事にしますと言った気がする。
 家族ってなんだろう。と思った。愛知にたまたま来ていたため、岡崎乾二郎の個展を見に行けたから結局、良かったのだけれども。

 あれから、院に無事、入学できて、元カノの説得材料にはなったけれども、就職してないし、金銭感覚やばいからという理由で、不意にキレられて別れた。なんも幸せな事ないじゃんと言われたらそうかもしれないけれども、院にも行けず、お金も払えず大学にも行けず、就職もできずというよりはマシやん。と思ったりする。まだ、こうつらつら何か書けているだけマシやんと思うと、不幸だけれどもなんとかなってんだなと思った。

 確か、不幸か幸せについての話で言うと、卒論で研究していた白川昌生の文献を漁っていたとき、美術批評家、松浦寿夫が、結論で白川君は前橋にいるけれども、なんとか幸せそうにやっている、という結論のある資料があり、幸せ、なのだろうかこの人はと思ったときがある。そこには、都内の美術批評を生業とする人物が地方の作家を「幸せそうにしている」という構造があり、非対称的な話である。
 この非対称性が発動してしまうのは、個々の立場が絶対性を帯びる発言内容である。はたして、幸せそうなのか、それを俎上に上げて話すとはどういった意味があるのか。
 幸福論といえば、ミルである。その前に、功利主義について触れたい。ジェレミーベンサム功利主義を唱え、最大多数の最大幸福を提示したが、ミルは倫理的な話にも幸福を持ち込むとき、快楽の問題があると話している。快楽には高級な快楽と低級な快楽があり、高級な快楽は知的な快楽主義であると論説する。
 ベンサム功利主義については、マイケル・サンデルの正義の教室でも触れており、サンデルは政治哲学が専門であるため、ロールズの反功利主義と照らし合わせながら最大多数の最大幸福について論じている。富の分配性とも関わる話でもあるため、そういった引き出し方をするのだろう。

 それはさておき、最大多数の最大幸福について頭をめぐらせたとき、統計上の話において、現代の男性は自殺率が特に本国において、他国と比べて多く、幸福率も低いという統計をどこかでみかけた。それは、単に幸福/不幸というラベリングで照らし合わせたとき、不幸ではないのかという話になるが。果たして不幸なのだろうか。
 
 不幸か幸せかは知らんけども、生きてるだけマシなんやなと思う。