20211214

 これは思い出したことではあるのだが、美術館に行くたびに、あまり日常ではみられない建物に作品が展示されているという違和感に遭遇する。この違和感は、この国の建物が欠陥建築ばかりなのか、さては美術館が神聖なものとして綺麗に飾られているのかは判然としない。

 この前、母親の宗教法人施設に訪れた際、建物が美術館にみえた。これは、飾られるものが神聖なものとして厳格な意識に人々を誘う効果として働いている。バチカン建築などの欧州の建築文化が名をはせたのは宗教建築ばかりなのも周知。日本においてもそれは顕著だ。それはともかく、それらと比べてオウム真理教サナトリウムは建築としてみたときにどのような効果を人々にもたらしてしまったのか気になるところだ。
 宗教と美術において現代美術の観点から言わせれば、宮島達男が宗教法人の理事をやっているという話が藝大の修士論文で発表された。その論文を読んでみたいと思っているが、どのような経路で入手できるのか知りたい。
 宮島達男でいえば、千葉市美術館の個展において、柿木プロジェクトの展示で展示された絵本が論語にみえた。どういった内容が論語にみえたのかこれから考えてみたい。それと、水戸芸術館での個展においても仏塔を題材にした作品が展示されており、(これは、未見である。)これは宮島達男の宗教観とどう関係しているのかも知りたい。この様に宮島作品について知る中で例の創価学会について知っていく手立てとなっているのであれば、幸福の科学が政治に乗り出すのとどう違うのかも関係するのではないのか。いわゆる政治や美術というアマチュアでも参戦可能な地平に乗り出す事で別の価値判断が可能となる。
 そのとき、政治の世界と美術の世界が参戦できるかつ、何らかの権力を行使できてしまっているという「ゆるさ」があるのかもしれない。ただ、政治の世界は選挙に通らなければ日の目をみない。だとしたなら美術におけるデビュー?はどこから?果たしてないの?か。
 これを書いていて、一概に「政治」とか「美術」と使ってねちねちしているのが少し重荷になってきた。けれど、美術系ユーチューバーをみていると自分の顔をだしてこういった事を声高らかに話している。批判するつもりはないが、そういったところも堂々とやれる人は周りのバッシングなど気にせずにやれる。その度胸が欲しいと思ったりした。