20211205

 朝早くに起きて、洗濯物を干し、この前つくった味噌汁とご飯を食べる。

 映画でも見に行こうと思い立ち、吉祥寺まで自転車を飛ばした。
 トーベヤンソンの伝記映画「TOVE」をみにいった。トーベヤンソンムーミンの作者としても知られているが、画家としての側面はあまり知られていない。父親も彫刻家であり、当時の美術とトーベの関わりも垣間見える。知り合いのパーティに誘われるシーンではナチスの風刺漫画を描いた人と扱われ、自身が画家として生計を立てたいにも関わらず、娯楽の側面が優先してしまうという矛盾を抱えたまま話は展開していく。父親の友人(パトロン?)と会ったときにも父親の作品の方が信頼できると言われてしまったりする。そんな中、パートナーとなる男と演劇を作らないのかと誘ってくる女の男女別々に恋をしてからトーベの身の回りの変化が訪れる。そういったストーリーだった。見た印象としては、個人的にトーベヤンソンの個展をみにいったりしていたため、人物について深く知る機会となったと同時に、当時の北欧美術についても知りたいと思う映画だった。
 昨今、画家の伝記映画について、岡田温司が書籍を出している事も思い返したりしていた。美術史よりも視覚体験による追体験が画家のイメージを立ち上げるといった一面については、演劇にもなったゴッホ像からも顕著。式場隆三郎の「炎の人、ゴッホ」という戯曲を通して、後期印象派の文脈などを抜きにしたゴッホ像が立ち上がる。ある意味での精神疾患として描かざる負えない人物という破綻した画家像の受容によって、ある構造的な判断によって絵が描かれている事もないがしろになってしまっているという懸念が私の中にはある。そもそも、人の認識の仕方はある一定数の刷り込み教育によって、ここから先はやってはいけないことという判断、理性が働いており、それから先の部分。(ここは認知科学でもいわれている先の不安定な部分に触れたくないという意識)は誰にでもあり、それによって社会も成立している。これについては、フーコーの監獄の歴史やイリイチの学校化する社会についても同じ事が言えるのかもしれない。
 それはさておき、そこから先の部分に触れてしまったときに「なんだこれは」という原始的な体験(これは、元教授の連載を立ち読みした結果であるが元教授は岡本太郎のこの言葉とカントの崇高について記述していたがために使っている。)に陥る。この墜落めいた部分を作品鑑賞から体験するというのは少なくともあるのではないのだろうか。ただ、それが現代の「美的教養」としてある美術の話となったときにないがしろにされている所もあると考える。そのとき、美術よりも元教授によれば旅行の方が刺激的な体験を得られると考えると話しているが、それはどうなのだろうか。美術と旅行の違いについても考えてみたい。少なくとも北欧でサウナをしたいとは映画をみて思った。