20220105

 昨晩横浜美術館学芸員、南島興がツイッターでスペースをひらいていた。「表現の現場調査団」はコレクティブなのではないのかという話や岡崎乾二郎の批評に敬意を持って接している批評家、沢山遼についての話などしていた。確かに、この国の美術には作家性を議論の俎上に置きすぎている気がする。それによってみえなくされてきた事柄があったのではないのだろうか。南島はチンポムやパープルーム、カオスラウンジなどといった運動がコレクティブのイメージとしてあり、そのためか調査団の活動がみえなくされているのではないのかと問題提起している。

 ある種の作家性において、誰の声なのかといった問題がある気がしている。その声を複数性によって立ち上げたとき、あまり上手くいっていなかったのが民芸などからも分かっている。けれども、これはマスメディアが作家についてどう取り上げられるのかも問題があると民芸から考えたりしている。
 一昨日書いた俵の話もそうだが、メディアが作家や運動をどう取り上げるのかによって動く側も動き方を意識せざるおえないのではないのか。ただ、その受容のされかた。もしくは作品の鑑賞のされ方もそうだが、見られ方みたいなものや消費されやすいものに邁進してしまうというのもおかしな話な気がする。
 多分、調査団の動きは特異な動きにみえるが、もう少しコレクティブとして評価してもいいと思う。これまでが特異であってこれからは違うと思う。
 とかく、民芸においては60年代に民芸ブームというのが起こり、地方の雑器を買いあさる購買運動があった。これは、雑誌、ananにおける民芸の取り上げられ方が「地方へ旅行して、そこで買う民芸」という表象のされ方であったということも加味している。
 そういった背景を知っているためか、南島がジャーナリズムを掲げて、物書きやおしゃべりをしているのも納得がいく。取り上げられ方や取扱の幅を広げる事で認識のされ方やさらに言えば、現代美術の展示のされ方も変わっていくのではないのかという期待もある。