20220304

朝。

 土曜日に実家に帰る予定だが、そのとき持って帰るいくつかの本の束がユニクロの紙袋に入ったまま、洗濯機が置かれる空きスペースに直立している。それをみて、今週、読み切った本あったなぁ。と感慨にふけた。

 Z世代の本を昨晩はざっと読んだ。『Z世代若者はなぜインスタ・Tik Tokにハマるのか?』という原田曜平の本。博報堂マーケティングリサーチャーをやっていた人物らしい。
 ツイッターなどのSNSが男性よりも女性の方が使いこなしている話や1人でいくつアカウントを持っているのかといった統計から、コロナ以前と以後のSNS事情を知るという新書。気になったのは、思わせぶりな振る舞いを現代人はよくするという話だ。例えば、色占いをインスタグラムのストーリーで流す。自分をどんな人物なのかみせる振る舞いやどの芸能人に似ているのか画像加工するアプリの普及からも、直接相手に伝えるよりも間接的にセルフイメージを流す手法が顕著である。
 この間接話法を知れる人/知れない人によってどう考え方が変わるのか、あるいは直接行動してしまうと炎上するリスクを負ってしまう。負荷を負わないための語りが実践されている。
 他方で裏垢では多くの愚痴や嫉妬、妬みが投稿されている。そういった表裏の顔を指摘しつつも、筆者は本質的な手掛かりを見失っている事を間接話法で説明している様に受け止められる。
 それは、エコロジカルな活動を例に説明されている。環境保全に協力的な企業のイメージが若者にとってかっこいい商品を開発しており、消費する若者たちは環境保全のためというのに気づいていない。筆者はそこで、単なる購買目的に終始してしまうという話を説明している。
 僕はこの目的が宙返りしている問題をオラファ―・エリアソンの展示からも考えられないのかと思ったりしていた。東京都現代美術館の展示をみにいったとき、院生の友達とお金がある人なんだね、という会話で終わった所に依拠する。実際、環境問題を視点に活動しているものの活動が膨大な予算とスペクタクルな方法によって行われている。ある意味、人的行動が環境破壊であるにも関わらず、それを否定して、敢えて人的行動を活発的にさせるシステムを駆動する作品とはなんだろう。
 例えば、小田急線ユーザーである私がいつも見かける清原伽耶と山の風景が被写体となっている高尾山の広告。秋の広告で「高尾山は、絵画だ。」という文字の下に紅葉した山の風景と清原の顔写真が正方形で二枚提示された広告である。あれはピクチャレスクの問題として、ステッカーの『分析美学入門』という本で取り上げられていた環境美学の問題と通時的なものを抱えている気がする。部分的に取り上げられた山の風景に対し、それに別の意味(絵画)を加え、表象化する。ステッカーの言い方でいえば、それによって、紅葉に対する適切な鑑賞経験を植え付けるという問題がある。果たしてそれが自然の適切な愛で方なのだろうかと。
 さて、ここでエリアソンの作品に話を戻す。エリアソンはWe Nessという言葉を提唱し、様々な環境保全活動に関わっている。例えば省エネライトを販売し、売り上げを資源枯渇の国に寄付するプロジェクトもある。ただ、その対象の国、他者はどこなのだろう。そういった問題もある。そして、エリアソンが提示する美しい自然は果たして、美しいのだろうか。展示では温暖化によって崩れてゆく氷山の写真を通して指摘している。果たして、エリアソンの自然の適切な愛で方が的を射た回答なのだろうか。その鑑賞経験を疑いを持って接するのか、エリアソンの作品と一緒に集合写真を撮影する鑑賞との差があるのではないのかと考えた。