20220701

 7月に入った実感は暑さだけだった。6月に入った実感は一週間の梅雨だった。この夏期講習みたいに短期集中型で立て続けに季節が移り変わるのは、年によるものなのか分からない。

 日記を書いていると何のために、誰にむけて。という問いがつきまとう。そもそも、1人の時間が多いから書いてるだけ。今まで、ブログといった閉じられながらも目的のない誰かに向けたメッセージの吐露が増幅するために「他者」が欠落しているのでは。僕も僕で何処か麻痺しながらも文字という伝達行為に赴いている、時間を割いている、無意味な時間。そもそも事後的に意味なんて「意味付け」としてついてまわるのでは。どうなんだろう。

 会社に行くと今日は人口密度が高い。業績発表のため、みんな式に向かうからなのか。

 16時に表参道の結婚式場地下で式が行われた。それに向けて半蔵門線に乗っていった。半蔵門線と銀座線が重なる駅のホームは紫と山吹色といえばいい様な黄色がある。個人的にはこの配色。嫌いじゃない。サクラマット水彩を使っていた中学生の頃、山吹色とレモン色という呼称で絵の具がまわっていた。キャッチーな言葉で色についてあれこれ言ったりしていたのがいつの間にか何号とか「号」で考える頭になっている。記号消費。

 式で営業の人とバックオフィスの人。別々に挨拶したりするのがどこにもいない感を感じた。コスモポリタンといっては語弊だが、このどこにもいないまま、ご飯だけ物色している。「食べるために出席したので。」と話してしまう。ステーキとミートローフのパイ包み焼きを食べたり、カンパリオレンジを飲んだりしていた。司会を務めていたのが元お笑い芸人の人だった。会社の先輩でよく指摘してくる人はウーロン茶をずっと飲んでいた。飲めないらしい。「よく飲まれるのですか?」と尋ねられると「うちは、父と母が...」と言って「意外ですね」と言われた。

 システムの人たちと喫煙所の途中まで歩いた。「どこか行かれるのですか」と尋ねたら「所帯持ちでクラブは厳しいね」と言っており、昔はクラブにいっていたのかなとか思ったりしていた。その人は最近、結婚したらしく、ビンゴ大会でバルミューダのトースターを当てていた。なぜかその前に上がっていた人はチョコレート一年分だった。トースターを当てた人は「まさか最後の最後だからネタ系で行くのかと思ったらこれか...妻に怒られる...そんなに置き場所がないのに...」と言っていた。ウーロン茶の人は「それ、私、欲しかったです。」と話している。僕はあげるしかないのではないのかと思っていた。

 銀座線に乗って渋谷に行く。けれども渋谷の方向より銀座になっており、銀座に行く。メゾンエルメスの展示が熱海でお世話になった芸大の壁画研の人の同期らしく、見に行くことにした。レンゾ・ピアノが設計したこの建物は外壁全てイタリアの工房から発注して持ってきたらしい。どうやって持ってきたのだろうかといつも思っている。自然光から入ってくる光だけになっている。ライティングがない。

 確かにこの季節はもう通過した夏至にもある様に、日射の時間が長い。この長さを展示のライティングと展示物、感光する写真、といった内包された事物へと流れ込んでいく。アビ・ヴァーブルクのムシュモネアトラスもそうだが、個人の収集品を開いていく試み、それを示していた展示だった。壁がとにかく綺麗にできていた。

 その後に渋谷で元々みに行こうとした映画「リコリス・ピザ」をシャンテでみた。この監督の映画は尺が長い、そして画角がスクリーンめいっぱいに広げる。そのためか、DVDでみるときにある種の「疲れ」が伴う。この疲れについて考えてみたときに、映画館による「上映」と自宅による「上映」は異なるものなのかもしれない。映画の内容はとにかく甘酸っぱいラブストーリー仕立ている。それを延々と流している。トラックがガソリンスタンドに入っていくカットが何故かよかった。

 革靴が重たい。銀座から家まで帰る長旅を終えた後に暑い部屋が待っていると思う。帰ると部屋が冷えていた。