20220715

 ホテル療養から解放された。ホテルから見える東京ビッグサイトの手前の突き刺さったノコギリ。よくみたらクレス・オルデンバーグだった。ビッグサイトに向かうサラリーマン横目に逆走してゆりかもめに乗る平日午前。

 家に帰ってきたらフランス料理の本が到着していた。コロナワクチン接種券の三回目も届いている。ついでにコインランドリーで洗濯物を回してワクチンの接種もした。注射をした後に2ヶ月待たないと注射してはいけないよ、と医者に言われる。そしたら医者は「あ。ごめんごめん。けれども大丈夫。俺もひと月して間違えて打っても死ぬわけじゃないから。」と笑顔で言われた。「めちゃ強い抗体つくよ」らしい。

 シーシャで絵描きの人と水タバコを吸った。あべさん死んだね。という会話をした。つい先程、山上容疑者の伯父が証言をしていた。どうやら父親が自殺してダウンしたらしい。自殺する家系について考えていた。「hanbaraくんは大丈夫だよ。山上はすごいよ。」という話をしていた。思わず「大丈夫?何かあった?」と聞いてしまう。

 そして、この日記が男性性についての話を書いている。と言ったら「暴露本みたいにならない方法で書いたほうがいいよ。」と話していた。そうだなと思った。その手前に最近活躍している同年代の詩人のツイートにいいねを押したら消された話などをしていた。

 帰り道。サカナクションを聴きながら歩いていたら。何周も同じ道を無表情で歌いながら歩いていた。「行かないで、見渡して、羽ばたいて、口ずさんで、いつか」というセリフを何度も何度も呟いていた。この辺りからサカナクションの曲には転向が生じている。この転向。EDM調。そして吉本隆明に対する多大なるリスペクト。言語にとって美とは何か。という言葉と言葉の間にある亀裂音みたいなものについて文章で書けないのか考えていた。

 「悲しみ、悲しみと同じ、歩幅で歩いた、夢をみていた。」その歩幅。距離感。これらの摩擦について言葉の節々から間合いみたいなものを考えさせられる。そこから音が低音と高音に分離していきなり低音が抜ける。この抜けたところから先ほどの行かないで云々のセリフが差し込まれている。

 多分、サカナクションの山口一郎さんはこの音と音の高低差について話をしながらも別々の距離について節々に呟いている。そこで、また初期の三日月サンセットを聴いてみた。

 三日月サンセットでは「道なりに進む、二人引きずって歩く長い影」というモチーフが現れてくる。この引きずって歩く長い影というモチーフは、道なり歩いているものの引きずっている別の人の影なのだろうか。「君は今、背中越しに何を考えていたのだろう」という「君」はどこの誰なのだろうか。聞いている側が向こう側に対して呼びかけている感覚がする。

 分裂している。この分裂についてサカナクションはEDM調で音に変換しながら曲を構築している。この別々の存在でありながらもこの別々の存在であることを自明にしつつ、曲の構成にしていった。

 特に3.11.以降のサカナクションDocumentaLyのアルバム以降、他者をどう捉えていくのか常に意識しながら曲を作り続けているが、音の重なりについて意識が向いているのはこの頃からなのではないのか。常に意識はしているものの、具体的な他者から抽象化された分裂する音の重なりと分離を繰り返しながら構築していく所に吉本の発語体験。『言語にとって美とは何か』で触れられる感嘆詞についての問題系との接続を考えてみたかった。

 「あっ」と言った時にそれは言葉になるのか誰かにとっての言葉になってしまった時に、それが「言葉」であって伝達する記号になってしまう。となると、音楽も誰かにとっての音楽ではなく、音の自律性のみに還元しようとする。その還元する方法についてこれまで模索してきたはず。

 なのに、ショックや忘れられないのでマスについて意識をしてしまう所に違和感がある。これは転向といえないのだろうか。これはサカナクションがどこに向かっているのかとても気になっている。吉本隆明について触れたのは、どこかで山口一郎さんが「僕は吉本の本に触れながら作詞をしている」と確かインスタライブで話しており、そこからだ。

 この吉本と山口の関係について書いてみたくなったりしていた。