20220524

 次、書籍の話し合いで僕の番だ。何を話そう。山口昌男の敗者の精神史を読んでいる。三越やデパートがどれだけ趣味の文化を形成していたのかという下りまで読んだ。そこで、農民芸術について触れており、その内容から話しを膨らませたいと思っている。

 それから柳宗悦の沖縄標準語問題であったり、札幌という言葉が北海道制定のときに決まって、破裂音を制定してしまった話、これは椹木野衣が日本・現代・美術で触れており、伏見瞬のスピッツ論に書いてあった。この破裂音と標準語問題。言葉の悟性について考えたい。
 ローカリティと話し言葉、書き言葉。それらがうまく結びつける論考書きたいなと思っているのだけれども。少し、カロリーが重い。
 話し合いに参加している批評の人たちと相談しながら論考の構想を練ってみたいと思っているのだけれども。少々図々しい。
 となると、修論を別の論考として膨らませて書いていくというのもあながち無理のない話で。他方で、博論まで書いたほうがしっかりとした書籍となるのもある。研究を会社員で続けているのも無理なのだろうか。この国では。ちょっとした飛躍。やってしまったぁ。

 昨日、友人と吉幾三のおらこんなむらさいやだ、という歌詞は柳田国男なんじゃないかという話になった。確か、爺さんと婆さんと数珠を持って空拝む。という一節があり、アリア・アスターのミッドサマーに出てくる村なんじゃないかと。柳田国男はそういった村にフィールドワークして、遠野物語を編纂した。それは、柳宗悦よりもローだが、やっていることは柳よりも堅実だ。
 何故、「美術」をローカルと結びつけると、ある種の特権階級のまつりごとと化してしまうのか。山本鼎はそこがまずかったと山口昌男は書いている。
 
 それから、大地の芸術祭のこれまでの作品を通覧すると初期の方がばえる作品が乏しい。どちらかといえば野営に近い作品が点在しており、住民からの反発もあったという。これは、北川フラムが安保闘争の間に藝大をバリケード封鎖したという感覚とシンクロしている。次は地元を封鎖したのだろう。

 所で、今日は退勤をしてから、近くのリモートワークのできる個室で転職活動をした。先週、面接した2社はだめだった。どうしよう。今日も面接、いい感触がしない。金曜日にエージェント通して相談しよう...
 そう、落ち込んで個室を出て、ビルの5階にあるため、エレベーターで下り、渋谷の街を京王線まで歩いていた。ビルがヒカリエの近くにあり、ヒカリエを通ろうとするも、その手前の銀だこでなにやらダンディな初老のおじさんがハイボール片手に外で立ち飲みをしている。美味しそうに見えたため、入店。
 ハイボールのみ注文。そのおじさんは配膳をして、図面の様な筒が刺さったリュックをさっと背負って次の現場に向かっていった。
 よくみたら、会田誠だった。